今日は8月8日。拙僧が小学生の頃、珠算教室に通っていたことから、この日が「そろばんの日」であることは知っていましたが、他にも記念日あるのかな?とか思って調べたら、結構ありますね。とりあえず【8月8日 記念日】を見たのですが、ありすぎて全部は挙げられないので、部分だけ。
そろばんの日
屋根の日
ヒゲの日
ひょうたんの日
タコの日
笑いの日
などだそうです。この内、分からないのは「ひょうたんの日」と「笑いの日」でしょうか。先のリンク先に依れば、「ひょうたんの日」は、瓢箪の見た目が数字の「8」に似ているためだそうです。これ、漢数字にしたら意味不明(笑)逆にいえば、「屋根の日」「ヒゲの日」は、算用数字にしたら意味不明(笑)後は、「笑いの日」は、人の笑いは「ハハ」だそうで、ここから「八・八」となって、「8月8日」という流れのようです。
で、今日ですが、とりあえず「屋根の日」に因んだ記事にしてみようと思います。
慧運直歳の充職、乃ち延応庚子の歳なり。去冬除夜に請を承けて、今、供衆す。
五月二十五日、梅雨霖霖として、草屋漏滴す。因みに、山僧入堂坐禅するに、照堂と雲堂と、両屋の簷頭、平地に波瀾を起こす。清浄海衆、進歩退歩、中間に兀立す。
時に直歳に告ぐるに、匠人と等しく裰を脱ぎ笠つけず、屋上に上って管す。雨脚、頂に潅げども辞労の色無し。
『永平広録』巻8-法語6
これは、道元禅師がまだ興聖寺におられた頃のお話しです。1241年5月25日ということになり、道元禅師は42歳であります。さて、ここでこれを引いたのは、何となく分かるでしょうが、余りに強くふった梅雨により、興聖寺で屋根が壊れてしまった建物が出たという話です。この場合、「照堂」と「雲堂」の「簷(のき)」とありますので、つなぎ目となる場所でということだと思います。「照堂」というのは、僧堂と後架の間にある廊下のことで、一つのお堂としても用いることがあります。大きな僧堂では後門と後架の間が暗くなってしまうため、屋根を高く造り、天窓などを設けて採光したことから「照堂」というそうです。よって、僧堂で坐禅をして、終わったので出ようと思ったら雨漏りによって動けなくなったということになるでしょう。
それで、道元禅師は建物の破損などを修繕する役目の直歳に充てられていた慧運に、その修理を命じたのであります。そうすると、慧運は職人と同じような格好になって、笠も付けずに屋上に上って修繕したのであります。雨が頭に降り注いでも、それを苦にしなかったということであります。この一件で感動した道元禅師は、後に慧運に一句を与え、経緯も含めこの法語を書いたわけです。
ところで、この場合はおそらく板の屋根、または檜皮葺であったと思われます。しかし、永平寺などは当然にそうではなくて、茅葺きだったことでしょう。その辺の経緯は、以下の一文から知られます。
志比の莊の中に、深山を開き、荊蕀を払ふて茅茨を葺き、土木を拽きて、祖道を開演す。今の永平寺是なり。
『伝光録』第51章
これは、瑩山禅師が道元禅師に関して提唱された一節になりますが、「茅茨を葺き」とあるので、茅葺きの屋根だったと拙僧は判断しています。また、次のような一文もあります。
三間の茅屋清涼に足れり、鼻孔瞞じ難し秋菊香し、
鉄眼銅睛何ぞ潦倒せん、越州にして九度重陽を見る。
『永平広録』巻10-偈頌108
これは、15首が詠まれた「山居の偈頌」と呼ばれる偈の一首であります。珍しく詠まれた時期が特定出来るもので、「越州にして九度重陽を見る」とある通り、これは、建長4年(1252)9月9日に詠まれたものだと推定できます。そして、ここからも、道元禅師の居室(方丈)が、間口三間の茅屋であったことが分かります。決して豪華な建物ではなかったと思われます。それが証拠に、道元禅師は『永平寺知事清規』にわざわざ「知事等、豊屋を事とし高堂大観を作るべからざる例」という一章を設けて、修行道場(叢林)の建物は、豪華にすべきではないという見解をお持ちでした。
古の聖賢の君、宮垣室屋を崇くすること弗く、茅茨の蓋を剪らず。況んや仏祖の児孫、誰か豊屋を事とし、朱楼玉殿を経営するものか。
『知事清規』
このようにあるわけです。「茅茨の蓋を剪らず」というのは、屋根はわざわざ手を入れることはないということです。そして、それは在家の者にもそういう人がいたので、出家の者は当然にそんなことに気を遣うべきではない、という見解なのです。だからこそ、こういう言葉も生まれます。
甚麼としてか法堂上の草深きこと一丈ならん。
『永平広録』巻1-51上堂
どうして法堂の上に、一丈(当時の単位で約3メートル)の草が深々と生えてしまうのか、という意味になります。しかし、ここからこのようにもいわれます。
華は愛惜に依りて落ち、草は棄嫌を逐って生うる。
同上
『正法眼蔵』「現成公案」巻に、若干表現を変えて引用されていますが、元々中国の禅宗で用いられていた表現に近いのはこちらです。結局、手入れをしない屋根の上には、ボウボウと草が生えるわけです。しかし、それを道元禅師はここで、どうしたって生えるものは生えると、或る種の達観をしておられます。これが、「あるがまま」とか、「無分別」とか呼ばれる境涯を示しているのでしょう。
最近の屋根は草が生えないような素材です。でも、むしろ平らな屋上には草を生やしたりして、冷却効果を狙っています。そう思う時、我々の祖先が用いた屋根の建築方式は、冬の雪や寒さに耐えることは勿論、夏場にも良かったのかもしれません。まさに、道元禅師が仰る「清涼に足れり」だったのではないでしょうか・・・そして、この清涼感とは、ただの感覚ではなくて、まさに脱落の境涯を示す好語でもあります。しかし、この暑さの中では、なかなか実感できないかもしれません。
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屋根の日
ヒゲの日
ひょうたんの日
タコの日
笑いの日
などだそうです。この内、分からないのは「ひょうたんの日」と「笑いの日」でしょうか。先のリンク先に依れば、「ひょうたんの日」は、瓢箪の見た目が数字の「8」に似ているためだそうです。これ、漢数字にしたら意味不明(笑)逆にいえば、「屋根の日」「ヒゲの日」は、算用数字にしたら意味不明(笑)後は、「笑いの日」は、人の笑いは「ハハ」だそうで、ここから「八・八」となって、「8月8日」という流れのようです。
で、今日ですが、とりあえず「屋根の日」に因んだ記事にしてみようと思います。
慧運直歳の充職、乃ち延応庚子の歳なり。去冬除夜に請を承けて、今、供衆す。
五月二十五日、梅雨霖霖として、草屋漏滴す。因みに、山僧入堂坐禅するに、照堂と雲堂と、両屋の簷頭、平地に波瀾を起こす。清浄海衆、進歩退歩、中間に兀立す。
時に直歳に告ぐるに、匠人と等しく裰を脱ぎ笠つけず、屋上に上って管す。雨脚、頂に潅げども辞労の色無し。
『永平広録』巻8-法語6
これは、道元禅師がまだ興聖寺におられた頃のお話しです。1241年5月25日ということになり、道元禅師は42歳であります。さて、ここでこれを引いたのは、何となく分かるでしょうが、余りに強くふった梅雨により、興聖寺で屋根が壊れてしまった建物が出たという話です。この場合、「照堂」と「雲堂」の「簷(のき)」とありますので、つなぎ目となる場所でということだと思います。「照堂」というのは、僧堂と後架の間にある廊下のことで、一つのお堂としても用いることがあります。大きな僧堂では後門と後架の間が暗くなってしまうため、屋根を高く造り、天窓などを設けて採光したことから「照堂」というそうです。よって、僧堂で坐禅をして、終わったので出ようと思ったら雨漏りによって動けなくなったということになるでしょう。
それで、道元禅師は建物の破損などを修繕する役目の直歳に充てられていた慧運に、その修理を命じたのであります。そうすると、慧運は職人と同じような格好になって、笠も付けずに屋上に上って修繕したのであります。雨が頭に降り注いでも、それを苦にしなかったということであります。この一件で感動した道元禅師は、後に慧運に一句を与え、経緯も含めこの法語を書いたわけです。
ところで、この場合はおそらく板の屋根、または檜皮葺であったと思われます。しかし、永平寺などは当然にそうではなくて、茅葺きだったことでしょう。その辺の経緯は、以下の一文から知られます。
志比の莊の中に、深山を開き、荊蕀を払ふて茅茨を葺き、土木を拽きて、祖道を開演す。今の永平寺是なり。
『伝光録』第51章
これは、瑩山禅師が道元禅師に関して提唱された一節になりますが、「茅茨を葺き」とあるので、茅葺きの屋根だったと拙僧は判断しています。また、次のような一文もあります。
三間の茅屋清涼に足れり、鼻孔瞞じ難し秋菊香し、
鉄眼銅睛何ぞ潦倒せん、越州にして九度重陽を見る。
『永平広録』巻10-偈頌108
これは、15首が詠まれた「山居の偈頌」と呼ばれる偈の一首であります。珍しく詠まれた時期が特定出来るもので、「越州にして九度重陽を見る」とある通り、これは、建長4年(1252)9月9日に詠まれたものだと推定できます。そして、ここからも、道元禅師の居室(方丈)が、間口三間の茅屋であったことが分かります。決して豪華な建物ではなかったと思われます。それが証拠に、道元禅師は『永平寺知事清規』にわざわざ「知事等、豊屋を事とし高堂大観を作るべからざる例」という一章を設けて、修行道場(叢林)の建物は、豪華にすべきではないという見解をお持ちでした。
古の聖賢の君、宮垣室屋を崇くすること弗く、茅茨の蓋を剪らず。況んや仏祖の児孫、誰か豊屋を事とし、朱楼玉殿を経営するものか。
『知事清規』
このようにあるわけです。「茅茨の蓋を剪らず」というのは、屋根はわざわざ手を入れることはないということです。そして、それは在家の者にもそういう人がいたので、出家の者は当然にそんなことに気を遣うべきではない、という見解なのです。だからこそ、こういう言葉も生まれます。
甚麼としてか法堂上の草深きこと一丈ならん。
『永平広録』巻1-51上堂
どうして法堂の上に、一丈(当時の単位で約3メートル)の草が深々と生えてしまうのか、という意味になります。しかし、ここからこのようにもいわれます。
華は愛惜に依りて落ち、草は棄嫌を逐って生うる。
同上
『正法眼蔵』「現成公案」巻に、若干表現を変えて引用されていますが、元々中国の禅宗で用いられていた表現に近いのはこちらです。結局、手入れをしない屋根の上には、ボウボウと草が生えるわけです。しかし、それを道元禅師はここで、どうしたって生えるものは生えると、或る種の達観をしておられます。これが、「あるがまま」とか、「無分別」とか呼ばれる境涯を示しているのでしょう。
最近の屋根は草が生えないような素材です。でも、むしろ平らな屋上には草を生やしたりして、冷却効果を狙っています。そう思う時、我々の祖先が用いた屋根の建築方式は、冬の雪や寒さに耐えることは勿論、夏場にも良かったのかもしれません。まさに、道元禅師が仰る「清涼に足れり」だったのではないでしょうか・・・そして、この清涼感とは、ただの感覚ではなくて、まさに脱落の境涯を示す好語でもあります。しかし、この暑さの中では、なかなか実感できないかもしれません。
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