仏教には「四馬」という概念がある。
あらゆる機縁、あるひは生・不生の法をきき、三乗・一乗の法をきく、しばしば邪路におもむかんとすれども、鞭影しきりにみゆるがごときんば、即ち正路に入るなり。もし師にしたがひ、人にあひぬるがごときは、ところとして説句にあらざることなし、ときとして鞭影をみずといふことなきなり。即坐に鞭影をみるもの、三阿僧祇をへて鞭影をみるもの、無量劫をへて鞭影をみ、正路に入ることをうるなり。
『正法眼蔵』「四馬」巻
これが師に就いて仏法を学ぶことの真意である。教え自体は様々なものがある。しかし、その理解を誤り、また、教えそのものの選択を誤り、我々は「邪路」に趣こうとしてしまう。ところが、それを改めようという動きがある。それが、「鞭」の働きである。この働きをいつ我々が感じ取るかが問題である。それを普段から感じる場合には、邪路に趣かず正路に入る。
それが、師に従って、語句を得ることであるが、それが鞭を感じることである。ところが、実際に鞭で打たれるわけでは無く、あくまでも「語句」であり、よって、それを鞭と出来るか否かが問われる。即座に見る者もいるし、三阿僧祇という時間(これも、実際には無限に近いが)を経て鞭と感じる者が居て、後は無量劫という本当に無限の時間を経てから感じる者がいる。
なお、さらに、鞭を食らうか食らわないか、という段階で機敏に師の教えを受けて、正路に趣く者もいて、これら四つの状況を「四馬」と呼んでいる。
さて、こういう風にいうと、さも、鞭の感じ取り方の遅速で、才能の上下などを思う人もいるかもしれないが、それは早合点である。道元禅師は、「如来世尊・調御丈夫、またしかなり。四種の法をもて、一切衆生を調伏して、必定不虚なり」(「四馬」巻)としているのだから、遅速が問題では無く、一切衆生が調うか否かが問題なのである。
そう考えると、この人生のみで仏道が成就することかどうかも分からない。
ただですら、今我々が生きる日本は、仏道への信仰が少ない者が多い末法の世である。末法の世だから、三宝への帰依が出来ない。よく批判されるが、葬式仏教だって仏教である。そもそも、何故葬式仏教になってしまったのか?その理由を考えたことがあるのだろうか?批判者はおそらく無いのだろう。それはそうだ。現在の日本仏教に対する批判者のほとんどは、相手を批判する事で自らの優位性を誇示したいだけだからである。鞭がいつ感じ取られる事やら・・・
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あらゆる機縁、あるひは生・不生の法をきき、三乗・一乗の法をきく、しばしば邪路におもむかんとすれども、鞭影しきりにみゆるがごときんば、即ち正路に入るなり。もし師にしたがひ、人にあひぬるがごときは、ところとして説句にあらざることなし、ときとして鞭影をみずといふことなきなり。即坐に鞭影をみるもの、三阿僧祇をへて鞭影をみるもの、無量劫をへて鞭影をみ、正路に入ることをうるなり。
『正法眼蔵』「四馬」巻
これが師に就いて仏法を学ぶことの真意である。教え自体は様々なものがある。しかし、その理解を誤り、また、教えそのものの選択を誤り、我々は「邪路」に趣こうとしてしまう。ところが、それを改めようという動きがある。それが、「鞭」の働きである。この働きをいつ我々が感じ取るかが問題である。それを普段から感じる場合には、邪路に趣かず正路に入る。
それが、師に従って、語句を得ることであるが、それが鞭を感じることである。ところが、実際に鞭で打たれるわけでは無く、あくまでも「語句」であり、よって、それを鞭と出来るか否かが問われる。即座に見る者もいるし、三阿僧祇という時間(これも、実際には無限に近いが)を経て鞭と感じる者が居て、後は無量劫という本当に無限の時間を経てから感じる者がいる。
なお、さらに、鞭を食らうか食らわないか、という段階で機敏に師の教えを受けて、正路に趣く者もいて、これら四つの状況を「四馬」と呼んでいる。
さて、こういう風にいうと、さも、鞭の感じ取り方の遅速で、才能の上下などを思う人もいるかもしれないが、それは早合点である。道元禅師は、「如来世尊・調御丈夫、またしかなり。四種の法をもて、一切衆生を調伏して、必定不虚なり」(「四馬」巻)としているのだから、遅速が問題では無く、一切衆生が調うか否かが問題なのである。
そう考えると、この人生のみで仏道が成就することかどうかも分からない。
ただですら、今我々が生きる日本は、仏道への信仰が少ない者が多い末法の世である。末法の世だから、三宝への帰依が出来ない。よく批判されるが、葬式仏教だって仏教である。そもそも、何故葬式仏教になってしまったのか?その理由を考えたことがあるのだろうか?批判者はおそらく無いのだろう。それはそうだ。現在の日本仏教に対する批判者のほとんどは、相手を批判する事で自らの優位性を誇示したいだけだからである。鞭がいつ感じ取られる事やら・・・
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