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或る学僧の「憲法九条」論(終戦の日に寄せて)

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今年は67回目の「終戦の日」である。そこで、ブログを始めてからは毎年、8月15日の「終戦の日」には戦争に関する記事をアップするように心がけている。これは或る意味、拙僧自身が戦争をどう考えるのか?という観点を獲得し、従来の自ら自身の思想信条を相対化する作業として行うのである。

今年は、或る学僧が唱えた「憲法九条」論について触れてみたい。

今一つ新日本建設について忘れてならないことは武備なき国家となったということである。これもいうまでもなく終戦条項の一であって、日本は民主的にならねばならぬと同時に、武を一切捨てねばならぬ。武装解除ということは戦争の出来ない国となることである。平和国家とは戦いのない国である。戦争のないというのには二つある。戦争の出来ない国と、出来てもしない国である。日本は敗戦の責罰として武装は一切ならぬ。物質的にも精神的にも武を捨てねばならぬことになった。〈中略〉戦いが出来ないから平和を主張するというのでは、万世の太平を開き世界永遠の平和を唱道して見ても、その声に力はない。犬の遠吠の感があり誠に心細い限りである。武装解除についてかく考えて悲観するものもある。身に寸鉄を帯びないで、武備を厳にする世界列強の中に飛び込んで行くとすれば、踏んでも蹴られても手出しは出来ない。誠に情ない国とならねばならぬと悲観する者もある。が、犬の遠吠で世界平和を唱道するという如き消極的な新日本では民族発展の理想もなく、敗戦忍苦の今日の生活に生きる張合いもない。それでは国民の前途に希望も光明もないことになる。日本が今日新憲法によって道義に基づく平和国家を建設せんとするのは、決してかかる消極的のものであってはならぬ。事実日本はいやでも武装を解除し、武を考えてもならぬ国とならねばならぬのであるが、然し戦いが出来ないからしないというのではなく、たとい出来ても絶対しないというのでなければならぬ。されば新憲法に、世界史上今まで例のない戦争放棄一条が規定せられ世界に宣言したのである。
    衛藤即応博士「日本民族の世界史的使命」、『道元禅師と現代』春秋社、312頁

衛藤博士は、かつて駒澤大学の教授・総長まで勤められた大先生であり、まさに、現在世俗一般で『正法眼蔵』を学ぶことが出来るようになったその功績の一端は、衛藤先生に帰せられるべきものである。衛藤先生は、なるほど、検閲があった時代の著作に、戦争遂行に関する肯定的意見があったり、駒澤大学の学生を戦地に壮行するための言葉が残っていたりするから、その点のみをやたらと強調して、「戦争協力者」の如く扱う人もいるが、まぁ、とんでもない話である。基本的に衛藤先生はそういう人では無い。当時は戦争遂行礼讃者、つまりは「天皇陛下万歳」の人が衛藤先生に無体なことを強いたが、今、平和主義者の人が、衛藤先生に無体なことを強いている。要するに問題が「主義者」ということなのだ。

さておき、この一文が書かれたのは1947年(昭和22)頃らしい。つまり、「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」を要求するポツダム宣言(ここで言われている「終戦条項」のこと)を受諾した「新日本」が、1947年5月3日より施行した新憲法である。よって、衛藤先生はその現状を下に、この一文を書いたと推定出来る。そして、衛藤先生はおそらくは当時、相当に話題に上っていたであろう「憲法九条」について、正確に理解し、そしてその実現を求めた文章を書かれたといえる。

なお、衛藤先生がこの文章で言いたいのは、武備を無くし、戦争が出来なくなったという現実から、「戦争が出来ない」事に基づく「平和実現」では無くて、そもそも戦争をしないという決意を新たにしなくてはならぬ、ということである。衛藤博士は、日本国憲法で戦争が放棄された事実について、「世界史上今まで例のない」という所に、正確に価値を見出している。そもそも、軍備とは何のために必要なのか?それは、我が日本民族の繁栄のためである。だが、繁栄のために軍備・戦争では無く、経済的な優位でもって可能だというのであれば、別に軍備は要らない。

軍備・戦争は絶対的な価値では無い。むしろ、手段でしかないのである。これに気付く時、我々は武備から自由になれる。そして、本当に必要なことが何かを考えることが出来る。無論、これは無抵抗・不服従などといったことを意味するのではない。また、経済的な繁栄のみを享受し、武備が無い場合、それこそカルタゴや、大宋帝国の二の轍を踏むことになることにもなるだろう。

しかし、ここで衛藤先生が訴えようとしているのは、積極的な武の放棄であり、さらにいえば、身に寸鉄を帯びずに列強の中に飛び込んで行くことなのだろう。これは、まさに「禅」である。この衛藤先生の決意に、拙僧は「禅」を感じる。この「禅」とは、強弱などの、あらゆる相対的価値を脱したところで得られる永遠平和である。この「平和」とは、二項対立的な戦争−平和の両方を放棄の先に現れる絶対の事象である。衛藤先生は、ここに日本国民の「希望」「光明」を見出したに違いない。そして、それは今の我々も同じである。我々は単純に、従来各々が持ち得ていた「主義主張」から、戦争や軍備の有無を考えるべきでは無い。それらが一体、何を意味するのかを吟味すべきなのである。

ところで、この衛藤先生の見解表明の後で、日本は朝鮮戦争などを理由に再軍備を行ったわけである。それを見ながら、果たして衛藤先生はどう感じられたのだろうか?それは興味深いところである。そして、現在の竹島問題ですっかり悪化しつつある日韓関係を始め、領土問題を含む諸外国との関係を見ると、こういう軍備・戦争の問題も、絵空事では議論出来ないと思うわけである。さて、どうするか?

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