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『坐禅箴』に於ける「?字」について

江戸時代末期の学僧である雲欞泰禅禅師(志摩の常安寺に住持)には、提唱録として『戒会落草談』という、授戒会の時の説戒録が残るが、最近、それ以外に『永平高祖坐禅箴』(永久岳水編『正法眼蔵註解新集』収録)と呼ばれる提唱録があることを知った。これは、道元禅師の『坐禅箴』について提唱を行っているが、その末尾に或る一言があり、それが気になった。

宏智古仏の坐禅箴には、仏仏の要機の機の字より韻を押んで、魚行遅遅の遅で終る。祖祖機要の要の字より韻を押で、鳥飛杳杳の杳にて終る。このように道理を自在に言ひつくして、両句連綿することは、中々なみなみの人の出来ることではない。高祖は宏智を御慕ひなされての述作故、右の語例をかりて、宗初の両句を御用ひなされたけれども、高祖の箴には?字はない。
    雲欞泰禅『永平高祖坐禅箴』

引用文最後に見える「?字」というのは、「韻字」と同じ意味になるので、要するにここで雲欞が指摘しているのは、宏智禅師『坐禅箴』は、冒頭の二句である「仏仏要機」「祖祖機要」の「機」と「要」に対応させて韻をふんでいるが、道元禅師のそれには無いと指摘しているのである。これは、両方を比べてみれば一目瞭然である。

  坐禅箴 勅諡宏智禅師正覚撰
 仏仏要機、祖祖機要。
 不触事而知、不対縁而照。
 不触事而知、其知自微。不対縁而照、其照自妙。
 其知自微、曾無分別之思。其照自妙、曾無毫忽之兆。
 曾無分別之思、其知無偶而奇。曾無毫忽之兆、其照無取而了。
 水清徹底兮魚行遅遅、空闊莫涯兮鳥飛杳杳。

  坐禅箴
 仏仏要機、祖祖機要。
 不思量而現、不回互而成。
 不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自証。
 其現自親、曾無染汚。其成自証、曾無正偏。
 曾無染汗之親、其親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。
 水清徹地兮魚行似魚、空闊透天兮鳥飛如鳥。

これだと分かり難いので、敢えてふまれている韻字のみを抜き出してみると、以下の通りである。

機―要
知―照
知・微―照・妙
微・思―妙・兆
思・奇―兆・了
遅―杳

こちらが宏智禅師の場合だが、見ての通りである。キッチリとふまれている。では、道元禅師の場合はどうか?

機―要
現―成
現・親―成・証
親・汚―証・偏
親・落―証・夫
魚―鳥

こちらが道元禅師の場合だが、雲欞の指摘の通り、全くではないが、余り韻を気にした様子はない。実際に、道元禅師のものは、内容重視であることが分かる。平仄などの完璧を期さなくてはならないという人は、かつても、現在も、曹洞宗内にいらっしゃるので、そういう方々にすれば、気に入らないのかもしれないが、しかし、現実はこうである。ところで、以前から良く知られていることだと思うが、道元禅師はこの詩文について、次のように仰っている。

今代の禅僧、頌を作り法語を書かん料に文筆等を好む、是レ即チ非なり。頌作らずとも、心に思はん事を書イたらん。文筆調ハずとも、法門を書クべキなり。是レをわるしとて見たがらぬほどの無道心の人は、好キ文筆を調へ、いみじき秀句ありとも、ただ言語計を翫んで、理を得ベカラず。
    『正法眼蔵随聞記』巻3-6

この御垂示は以前、【禅僧の法語とはどうあるべきか?(新・或る僧の修行日記1)】という記事でも紹介したのだが、道元禅師は文筆(文章表現、平仄などの意)などが調わなくても、とにかく法門を書くべきだという。そして、言語ばかりを弄んで、理を得ないことこそ問題だとされている。その意味では、なるほど宏智禅師は文筆も理も調っておられるのだろうし、流石に天童如浄禅師も、道元禅師も「宏智古仏」と呼ぶだけの人ではあるが、なかなかそれは得難い才だといわざるを得ない。であれば、文筆よりも内容重視で行こう、それが曹洞宗だったのであろう。

そのことを、ハタと気付かされた雲欞の指摘であった。

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