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再び雑誌『一個人―仏教宗派入門』について

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いつも思うのだが、曹洞宗を「禅宗」に入れてしまうとなると、その「禅宗」の特徴に引っぱられて、曹洞宗の本面目が見えなくなってしまうことがある。例えば、雑誌『一個人』(2012年9月号)は、「仏教宗派入門」なのだが、そこでは曹洞宗を「禅宗」の括りに入れて、以下のような説明をされている。

禅宗では文字に頼らず、経典に書かれている以外のことに悟りへの道があると信じられているため、根本経典は特にない。ただし、『般若心経』などは良く読まれている。
    前掲同誌、32頁

まぁ、こういう説明によって、曹洞宗でも経典を学ぶことは無いとか思われてしまうのだろうが、道元禅師は流石にあれだけの著作を書かれただけあって、教えも単純では無い。この『一個人』でいわれる「経典に書かれていること以外」とかいう下りは、間違いなく「教外別伝・不立文字」辺りを典拠にしている。では、この「教外別伝」について、道元禅師がどう仰っているかといえば、以前から何度か拙ブログでは引用しているけれど、改めて見てみたい。

ある漢いはく、釈迦老漢、かつて一代の教典を宣説するほかに、さらに上乗一心の法を摩訶迦葉に正伝す、嫡嫡相承しきたれり。しかあれば、教は赴機の戯論なり、心は理性の真実なり。この正伝せる一心を、教外別伝といふ。三乗十二分教の所談にひとしかるべきにあらず。一心上乗なるゆえに、直指人心、見性成仏なり、といふ。
    『正法眼蔵』「仏教」巻

まず、「ある漢いはく」からいわれていることは、要するに道元禅師が当時見聞していた「教外別伝」という一語に関する通念であったといって良い。要するに、教えというのは聞く者の能力に従って方便に説かれた「戯論」であるが、「正伝する一心」が「理性の真実」としてあり、それこそが釈尊から摩訶迦葉尊者に正伝されたというのである。依って、この「教えの外に伝えられた一心」こそが、「教外別伝」なのである。また、この「一心」は、我が心にも具わっているわけで、それを直接に指し示し、その本性を徹見すれば、即ち成仏なのである。いわゆる「見性成仏」である。ところが、この教えについて、道元禅師は以下のように示される。

この道取、いまだ仏法の家業にあらず、出身の活路なし、通身の威儀あらず、かくのごとくの漢、たとひ数百千年のさきに先達と称すとも、恁麼の説話あらば、仏法・仏道はあきらめず、通せざりける、としるべし。ゆえはいかん。仏をしらず、教をしらず、心をしらず、内をしらず、外をしらざるかゆえに。そのしらざる道理は、かつて仏法をきかざるによりてなり。いま諸仏といふ本末、いかなるとしらず。去来の辺際すべて学せざるは、仏弟子と称するにたらず、ただ一心を正伝して仏教を正伝せずといふは、仏法をしらざるなり。仏教の一心、をしらず、一心の仏教をきかず。一心のほかに仏教あり、といふなんぢが一心、いまだ一心ならず、仏教のほかに一心あり、といふなんぢが仏教、いまだ仏教ならざらん。たとひ教外別伝の謬説を相伝すといふとも、なんぢいまだ内外をしらざれば、言理の符合あらざるなり。
    「仏教」巻

「この道取」とは前段を受けてのものであるから、つまり、教外別伝や、見性成仏という教えについては、仏法の学ぶ者にとっての真実ではなく、解脱するような道にもないというわけである。そして、道元禅師が示した理由は、極めて論理的である。つまり、「仏」「教」「心」「内」「外」を良く考えてみろ、というわけである。道元禅師が「仏」という場合、それは必ず空の理法を悟る絶対的普遍的存在である。その意味で、不去不来の去来無しである。そして、その教えもまた、絶対的普遍的である。三世十方に変わることが無いためである。さて、その時、「一心を正伝し、仏の教えを受け嗣がない」という場合、仏の理法を示す「一心」が、「教」と対立してしまっている。

つまり、「一心のほかに仏教あり、といふなんぢが一心、いまだ一心ならず、仏教のほかに一心あり、といふなんぢが仏教、いまだ仏教ならざらん」なのである。一心と仏教とは対立関係にあってはならない。その意味で、「教外別伝」は「謬説」である。どのような理解が正しいのか?つまり、「仏教の一心」であり、「一心の仏教」である。ここから、我々は「内外」の理解も進めるべきである。つまり、一心にも仏教にも「内外無し」なのである。

このゆえに、上乗一心といふは、三乗十二分教これなり、大蔵・小蔵これなり。
    「仏教」巻

よって、釈尊が摩訶迦葉尊者に特別に伝えたという「上乗一心」は、これこそ「三乗十二分教」というあらゆる教えなのである。とはいえ、道元禅師自身、経典の判釈は行う。だがそれは、教相を基準にするというよりも、基準は禅宗の伝統である。

兄弟、若し看経せんと要せば、須らく曹谿の挙する所の経教に憑くべし。いわゆる法華・涅槃・般若等の経、乃ち是れなり。
    『永平広録』巻5-383上堂

道元禅師は同上堂に於いて、『円覚経』『首楞厳経』を否定してみせた。それは、教相が未だしであり、明らかに偽経と見なされるためである(だが、取り扱いは単純では無い。『正法眼蔵』「転法輪」巻要参照)。そして、六祖曹渓慧能禅師が挙げた『法華経』『大般涅槃経』『般若経』系の経典を用いるべきだという。主要の大乗経典を重視した様子が見受けられる。また、晩年はまた違う理由だと思うが、『法華経』を重視した。確かに、他宗派のように、特定の経典に従って教義を組み立てるというようなことはしていないから、いたずらに、所依の経典が有ったなどというつもりは無い。だが、同時に、禅宗の括りに引っぱるのも勘弁願いたいと思うわけである。

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