道元禅師が、『正法眼蔵』「供養諸仏」巻などで指摘する、或る釈尊前生譚を読むと、時代を前後して、複数の「釈迦牟尼仏」がいたとなっている。
そのとき売身の菩薩は、今釈迦牟尼仏の往因なり。他経を会通すれば、初阿僧祇劫の最初、古釈迦牟尼仏を供養したてまつりましますときなり。かのときは、瓦師なり、その名を大光明と称す。
「供養諸仏」巻
出典は、『大智度論』巻4となっていて、道元禅師は更に他経も参照して、この「古釈迦牟尼仏」を供養して、「今釈迦牟尼仏」になった大光明という瓦師について、諸仏を供養し、その功徳によって誓願が契った例として挙げている。つまり、時代が変わっても名前が同じ如来がいるということである。そういえば、このようなことも仰っていた。
過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。
「即心是仏」巻
この一節は、『修証義』「第五章・行持報恩」にも引用されているので、良く知られた一節であろう。これだと、三世の諸仏が必ず「釈迦牟尼仏」になるのだ、という話である。先の『大智度論』を受けて、それを更に展開させたような話であるが、多分、どっかの大乗経典にはこういう文脈があるのだろう。調べていないが(笑)
さて、更に以下の一節もご覧いただきたい。
憍陳如比丘 当に無量の仏を見たてまつりて
阿僧祇劫を過ぎて 乃ち等正覚を成ずべし
常に大光明を放ち 諸の神通を具足し
名聞十方に遍じ 一切の敬う所として
常に無上道を説かん 故に号けて普明とせん
其の国土清浄にして 菩薩皆勇猛ならん
咸く妙楼閣に昇って 諸の十方の国に遊び
無上の供具を以て 諸仏に奉献せん
是の供養を作し已って 心に大歓喜を懐き
須臾に本国に還らん 是の如き神力あらん
仏の寿六万劫ならん 正法住すること寿に倍し
像法復是れに倍せん 法滅せば天人憂えん
其の五百の比丘 次第に当に作仏すべし
同じく号けて普明といい 転次して授記せん
『妙法蓮華経』「五百弟子授記品」
陳如尊者の過去世の因縁が説かれ、そして、今後必ず成仏できる、という授記を仏陀が与えた文脈なのだが、それは良い。気になるのは、最後の引いた箇所にあるところ、更に「五百の比丘」についても、作仏するのだと授記を与えているのだが、名前が陳如尊者の仏陀名と同じ。みんな、「普明如来」だというのである。何か凄くないか?
仏陀がたくさん、でも名前がみんな「普明如来」で同じだという話であろう。ついでに言えば、世界の構造も同じなのだろう。これって、とても不思議なのだが、でもよくよく文章を読むと、「転次して授記せん」とあるから、同時代に現れるわけ、というのではなさそう。要するに、陳如尊者が普明如来になると、そこから徐々に次の比丘へ授記して、それを繰り返して、五百の比丘は全て、普明如来になるという話になりそうだ。
なるほど、だとすると、先に挙げた道元禅師が仰っていることも、その観点からの理解で良さそうだが、そうなると困るのが、弥勒菩薩の位置付けである。如来名も弥勒だということらしいのだが、だとすると、これは、道元禅師が仰る三世の釈迦牟尼仏が途絶えた後に、弥勒如来になるという話なのだろうか?
なんだか、良く分からなくなってきた。一応、来週、関連した事柄を発表するつもりだったのだが、この辺は聞かれてもとぼけるしか無さそうだ。やれやれ・・・
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
そのとき売身の菩薩は、今釈迦牟尼仏の往因なり。他経を会通すれば、初阿僧祇劫の最初、古釈迦牟尼仏を供養したてまつりましますときなり。かのときは、瓦師なり、その名を大光明と称す。
「供養諸仏」巻
出典は、『大智度論』巻4となっていて、道元禅師は更に他経も参照して、この「古釈迦牟尼仏」を供養して、「今釈迦牟尼仏」になった大光明という瓦師について、諸仏を供養し、その功徳によって誓願が契った例として挙げている。つまり、時代が変わっても名前が同じ如来がいるということである。そういえば、このようなことも仰っていた。
過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。
「即心是仏」巻
この一節は、『修証義』「第五章・行持報恩」にも引用されているので、良く知られた一節であろう。これだと、三世の諸仏が必ず「釈迦牟尼仏」になるのだ、という話である。先の『大智度論』を受けて、それを更に展開させたような話であるが、多分、どっかの大乗経典にはこういう文脈があるのだろう。調べていないが(笑)
さて、更に以下の一節もご覧いただきたい。
憍陳如比丘 当に無量の仏を見たてまつりて
阿僧祇劫を過ぎて 乃ち等正覚を成ずべし
常に大光明を放ち 諸の神通を具足し
名聞十方に遍じ 一切の敬う所として
常に無上道を説かん 故に号けて普明とせん
其の国土清浄にして 菩薩皆勇猛ならん
咸く妙楼閣に昇って 諸の十方の国に遊び
無上の供具を以て 諸仏に奉献せん
是の供養を作し已って 心に大歓喜を懐き
須臾に本国に還らん 是の如き神力あらん
仏の寿六万劫ならん 正法住すること寿に倍し
像法復是れに倍せん 法滅せば天人憂えん
其の五百の比丘 次第に当に作仏すべし
同じく号けて普明といい 転次して授記せん
『妙法蓮華経』「五百弟子授記品」
陳如尊者の過去世の因縁が説かれ、そして、今後必ず成仏できる、という授記を仏陀が与えた文脈なのだが、それは良い。気になるのは、最後の引いた箇所にあるところ、更に「五百の比丘」についても、作仏するのだと授記を与えているのだが、名前が陳如尊者の仏陀名と同じ。みんな、「普明如来」だというのである。何か凄くないか?
仏陀がたくさん、でも名前がみんな「普明如来」で同じだという話であろう。ついでに言えば、世界の構造も同じなのだろう。これって、とても不思議なのだが、でもよくよく文章を読むと、「転次して授記せん」とあるから、同時代に現れるわけ、というのではなさそう。要するに、陳如尊者が普明如来になると、そこから徐々に次の比丘へ授記して、それを繰り返して、五百の比丘は全て、普明如来になるという話になりそうだ。
なるほど、だとすると、先に挙げた道元禅師が仰っていることも、その観点からの理解で良さそうだが、そうなると困るのが、弥勒菩薩の位置付けである。如来名も弥勒だということらしいのだが、だとすると、これは、道元禅師が仰る三世の釈迦牟尼仏が途絶えた後に、弥勒如来になるという話なのだろうか?
なんだか、良く分からなくなってきた。一応、来週、関連した事柄を発表するつもりだったのだが、この辺は聞かれてもとぼけるしか無さそうだ。やれやれ・・・
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。