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今日は敬老の日です(平成22年度版)

今日は「敬老の日」です。「祝日法」ですと、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としています。元々は、関西で行われていた「としよりの日」を元にしているそうで、地元に住む高齢者から、様々な智慧をお借りするような日とされていたようです・・・拙僧、これを聞いて思い出すのが、禅問答に多出する、とんでもない「老婆」のことです。拙僧が大好きな公案の1つである「台山の婆子(「趙州勘婆」とも)」なんかはどうでしょう。

 台山の路に、一の婆子有り。僧有りて、「台山の路、甚麼の処に向かいて去く」と問う毎に、婆曰く、「驀直去(驀直に去け)」と。
 僧、纔かに行くや、婆曰く、「好箇の阿師、また恁麼に去く」。前後の僧の問うこと、皆、此の如し。後に僧有って趙州に挙似す。
 州曰く、「待や我れ、你の為に這の老婆と勘破せん」。
 州、遂に往きて問う、「台山の路、甚れの処に向かいて去く」。
 婆曰く、「驀直去」。
 州、纔かに行くや、婆云く、「好箇の阿師、また恁麼に去く」。
 州、帰って大衆に挙似して云く、「我、你の為に這の老婆を勘破し了れり」。
    『真字正法眼蔵』中133則

この公案、『圜悟禅師頌古』にも出ますし、『従容録』にも出ます。それくらい題材としては特筆すべきものですが、初めてこれを見た時、「超、わかんねぇ」と驚いた公案の1つです。意味としては、文字通り以上のものではありません。台山というのは、趙州が住持していた観音院があった場所でありますが、その場所に到る途中にくせ者の老婆がいて、色々な僧が、趙州に参じるために「台山へは、どの道から向かえば良いのですか?」と聞くと、老婆は「まっすぐ行きな」とだけ答えるのです。

ここだけ見ると「親切な人だ」という話で終わるのですが、それで済まないのは、言葉に従った僧侶に対し、一言を追加しているのです。この場合には「良い坊さんなのに、またそのように行った」というのです。そんな状況が何度か続くと、或る僧が趙州禅師に、こんな話があったのですが・・・と報告したようです。そうしたら、趙州は「諸君のために、その老婆を見破ってきてやろう」と告げるのです。

いざ、趙州が老婆と出会うと、同じように聞きます。「台山へは、どの道から向かえば良いのですか?」と。すると、老婆は同じように答えます。「まっすぐ行きな」と。趙州も同じように向かうと、やはり趙州に対しても老婆は、「良い坊さんなのに、またそのように行った」と告げるのです。ここまでは完全に一緒です。しかし、趙州は寺に帰ってくると、弟子達に対して、「私は、諸君のために老婆を見破ってきたぞ」というのです。

これだけだと、何が何だか全く分かりません。

かつてはそうでしたが、今は分かります。結局これは、趙州への道を聞いていたわけですが、「道路」と同時に「仏道」の「行き方」を聞いているのです。その意味で、趙州はこの老婆の宗風が「驀直去」であると見破ってきたのであり、更にいえば、趙州自身、仏道へは常に「驀直去」であるとも述べているのです。この辺、『従容録』に見える詳しい提唱をご覧いただくと、更に詳しいことが分かります。

ところで、拙僧がこれを一頻り見たとき、思い出したのはあの、青島幸男さんが熱演していた「いじわるばあさん」になります。今思えば、あのドラマ、とんでもない内容でしたが、ただ、意地悪が生み出す智慧のあり方は見るべきものがあります。老婆といえば「老婆親切」と、優しい様子ばかりが強調されますけれども、実際には意地悪だって良いのかもしれませんね。それもまた、「智慧」であるならば。今日は「敬老の日」になります。「敬老」なのだから、意地悪も敬老、親切も敬老。「敬」というのは、あくまでも平等に敬老しなくてはならないのです。

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