前回の【(12n)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。
『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日からは、「三 宗春坊遁世の事」を見ていきます。この宗春坊というのは、慈悲深い上人として知られ、東大寺の僧でした。縁あって田畑を相続したところ、周囲にいた僧に妬まれ命を狙われたというので、自分は遁世するからと言い、その田畑の権利を手放したのです。他にも、自らの命や物に一切執着しなかった人々を紹介します。
南都(奈良)に、宗春坊という慈悲深い上人がいた。東大寺の法師である。師匠から田を譲り受けたのだが、同門の兄弟弟子が、争論を起こしてその田を取ろうとした。果てには、恨みに思って、隙を窺って殺そうとしたものだから、宗春坊は、このようなことには意味が無いと思い、相続のための権利書を持って来て、その敵に取らせ、「日頃は親しい友人だと思っていましたが、わずかの田のために快く思われないというのは、我が意に背きますので、これは差し上げます」といったところ、(その敵は)「一応の道理を申し上げただけです。これを受け取ることは出来ません」と言って返してきたので、(宗春坊は)「何としても遁世したいという志がありますので、(この田は私にとって)無用の物です。とにかく受け取って下さい」といって、打ち捨てるように渡して、帰るとすぐに遁世した。
(宗春坊は)慈悲心が深く、仏法を興隆したいという誓願を持つ人であったので、南都(の寺院や教学)の興隆を多く成し遂げた人であった。一切の他人の大事を自分の大事として気遣い、家で廃れてしまったことを興し、菩薩の行を誠実に身に付け振る舞った人であった。特別な行いなどは無かった。ただ、この(菩薩の)心のままであって、臨終にも乱れは無かったという。
それにしても、人の心とは何とも思うようにならないものだ。あれほど争論して(宗春坊の田を)取ろうとしたのに、(宗春坊が田を)受け取らせようとしたら、その時には、「取るつもりは無い」などというのだから。
拙僧ヘタレ訳
実際には、この宗春坊と正反対の生き方をしている人が多いことでしょう。また、宗春坊と争った相手のような言動・行動をする人も多いことでしょう。実に嘆かわしいことです。特に悪いのは後者です。まだ「言行一致」していれば、ただの「悪人」で片付けるところですが・・・
そして、では逆に、この宗春坊の敵のような言動・行動を「言行一致」させていれば良いか?というと、それは自らの財産や立場への執着となり、まさにケチは仏陀の制するところですので、良くないわけです。
しかし、宗春坊からすれば良い迷惑だったことでしょう。いや、この師匠という人は、多分に良い僧侶だったのだと思うんですよね。多くの弟子を育て、その中でも、見所のある宗春坊に自分の持っていた田を受け継がせたわけですから。それを思う時、そのような田を持っていれば、収入も出来て、修行が更に進むだろうという想いもあったはずなのです。
ですけれども、人の心は難しいもので、恐らく、「宗春坊の同門」となっている人たちも、それなりに良い僧侶だったとは思います。ですが、宗春坊のみが田を得たことで、嫉妬心を抱いたのです。「嫉妬心」というのは、以前から繰り返し拙ブログでは申し上げていますが、「或る種の精神的親近感」が無くてはなりません。これは、譬え有名であっても、親しくない人が良い暮らしをしていても、何とも思わないでしょう(いや、執念深くて、自分より幸せな人全てに嫉妬する人もいますけど)。それこそ、全く赤の他人の金持ちには嫉妬しないのです。
ところが、自分の身内で宝くじに当たったとか、もの凄い美男・美女と結婚したとかいう話になると別なのです。羨ましくて仕方ない。それが「離れられない嫉妬心」です。親しいから、繰り返しその嫉妬心を抱く本人の心に起きてくるのです。
よって、嫉妬心を抱かないための方法としては、精神的親近感を抱く対象を作らないというのが一番です。その方法として有効なのが、「遁世」であることはいうまでもありません。よって、この記事でお伝えしているように、何の前触れも無く、親しい人たちからの「嫉妬」を受けちゃう場合には、「遁世」するのが良いのです。
宗春坊は、遁世を実現するべく、自分が受け継いでいた田を嫉妬した相手に渡そうとしました。
この記事では、まさにこの場面で人間の心根で本当に一番卑しい部分が出ます。それは、田を受け継げる立場になった兄弟弟子です。嫉妬心に駆られて、羨ましくて仕方ない状況で、宗春坊を殺そうとまでしたのに、いざ受け取れるとなったら体面を繕うのですから。でも、実際にいるんですよね、こういう人。上記訳文の最後で無住が指摘する通りです。
仏教説話というのは、分かりやすいですし、例が身近なところにあるので、我々の心に深く刺さってきます。ですが、これを逃げては「心の修行」が進むわけはありません。その意味で、今日から始まる数回の当連載は「如何にして嫉妬心を離れるか?」が課題です。拙僧も当然に自信は無いのですが、如何にして「名聞利養を離れるか」という課題を持っているので、この辺は是非に修行していきたいところです。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日からは、「三 宗春坊遁世の事」を見ていきます。この宗春坊というのは、慈悲深い上人として知られ、東大寺の僧でした。縁あって田畑を相続したところ、周囲にいた僧に妬まれ命を狙われたというので、自分は遁世するからと言い、その田畑の権利を手放したのです。他にも、自らの命や物に一切執着しなかった人々を紹介します。
南都(奈良)に、宗春坊という慈悲深い上人がいた。東大寺の法師である。師匠から田を譲り受けたのだが、同門の兄弟弟子が、争論を起こしてその田を取ろうとした。果てには、恨みに思って、隙を窺って殺そうとしたものだから、宗春坊は、このようなことには意味が無いと思い、相続のための権利書を持って来て、その敵に取らせ、「日頃は親しい友人だと思っていましたが、わずかの田のために快く思われないというのは、我が意に背きますので、これは差し上げます」といったところ、(その敵は)「一応の道理を申し上げただけです。これを受け取ることは出来ません」と言って返してきたので、(宗春坊は)「何としても遁世したいという志がありますので、(この田は私にとって)無用の物です。とにかく受け取って下さい」といって、打ち捨てるように渡して、帰るとすぐに遁世した。
(宗春坊は)慈悲心が深く、仏法を興隆したいという誓願を持つ人であったので、南都(の寺院や教学)の興隆を多く成し遂げた人であった。一切の他人の大事を自分の大事として気遣い、家で廃れてしまったことを興し、菩薩の行を誠実に身に付け振る舞った人であった。特別な行いなどは無かった。ただ、この(菩薩の)心のままであって、臨終にも乱れは無かったという。
それにしても、人の心とは何とも思うようにならないものだ。あれほど争論して(宗春坊の田を)取ろうとしたのに、(宗春坊が田を)受け取らせようとしたら、その時には、「取るつもりは無い」などというのだから。
拙僧ヘタレ訳
実際には、この宗春坊と正反対の生き方をしている人が多いことでしょう。また、宗春坊と争った相手のような言動・行動をする人も多いことでしょう。実に嘆かわしいことです。特に悪いのは後者です。まだ「言行一致」していれば、ただの「悪人」で片付けるところですが・・・
そして、では逆に、この宗春坊の敵のような言動・行動を「言行一致」させていれば良いか?というと、それは自らの財産や立場への執着となり、まさにケチは仏陀の制するところですので、良くないわけです。
しかし、宗春坊からすれば良い迷惑だったことでしょう。いや、この師匠という人は、多分に良い僧侶だったのだと思うんですよね。多くの弟子を育て、その中でも、見所のある宗春坊に自分の持っていた田を受け継がせたわけですから。それを思う時、そのような田を持っていれば、収入も出来て、修行が更に進むだろうという想いもあったはずなのです。
ですけれども、人の心は難しいもので、恐らく、「宗春坊の同門」となっている人たちも、それなりに良い僧侶だったとは思います。ですが、宗春坊のみが田を得たことで、嫉妬心を抱いたのです。「嫉妬心」というのは、以前から繰り返し拙ブログでは申し上げていますが、「或る種の精神的親近感」が無くてはなりません。これは、譬え有名であっても、親しくない人が良い暮らしをしていても、何とも思わないでしょう(いや、執念深くて、自分より幸せな人全てに嫉妬する人もいますけど)。それこそ、全く赤の他人の金持ちには嫉妬しないのです。
ところが、自分の身内で宝くじに当たったとか、もの凄い美男・美女と結婚したとかいう話になると別なのです。羨ましくて仕方ない。それが「離れられない嫉妬心」です。親しいから、繰り返しその嫉妬心を抱く本人の心に起きてくるのです。
よって、嫉妬心を抱かないための方法としては、精神的親近感を抱く対象を作らないというのが一番です。その方法として有効なのが、「遁世」であることはいうまでもありません。よって、この記事でお伝えしているように、何の前触れも無く、親しい人たちからの「嫉妬」を受けちゃう場合には、「遁世」するのが良いのです。
宗春坊は、遁世を実現するべく、自分が受け継いでいた田を嫉妬した相手に渡そうとしました。
この記事では、まさにこの場面で人間の心根で本当に一番卑しい部分が出ます。それは、田を受け継げる立場になった兄弟弟子です。嫉妬心に駆られて、羨ましくて仕方ない状況で、宗春坊を殺そうとまでしたのに、いざ受け取れるとなったら体面を繕うのですから。でも、実際にいるんですよね、こういう人。上記訳文の最後で無住が指摘する通りです。
仏教説話というのは、分かりやすいですし、例が身近なところにあるので、我々の心に深く刺さってきます。ですが、これを逃げては「心の修行」が進むわけはありません。その意味で、今日から始まる数回の当連載は「如何にして嫉妬心を離れるか?」が課題です。拙僧も当然に自信は無いのですが、如何にして「名聞利養を離れるか」という課題を持っているので、この辺は是非に修行していきたいところです。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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