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不安定からの教義体系

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2月の頃だが、講談社学術文庫から再刊された佐貫亦男氏『不安定からの発想』を読み終えた。その序文にこのような一文があった。

ライト兄弟たちは、もちろん最初は定説に従って彼らのグライダーへ安定性を付与した。ところが練習中に、安定なグライダーが突風中でしきりに動揺することを発見した。考えてみると当然のことで、細かい突風に遭遇してもそれに対応するため、機体は自体を安定化する努力を神経質に実行する。動揺はその現れであった。
    前掲同著13頁

我々は「動揺」と聞くと、不安定だからそれが発生すると考え、その揺れている方を何とかしようとしてしまう。ところが、これは逆で、環境の側が不安定の中、安定している個物が、それとしてあろうとする時「動揺」が発生しているのである。よって、「動揺」は、実は安定の裏返しである。動揺こそが安定への不断無き努力だと考えた時、我々は、そもそもの「安定」について、考えを改めなくてはならなくなる。個物は常に環境と相即して存在している。環境が不安定の時、個物もまた不安定になる。よって、いたずらな理想としての安定を求めるのではなく、不安定から個物のあり方を考えていけば良い。

その方が自然なのだ。

そして、実はここから、現代の仏教教団に於ける「教義体系」のあり方も、考えるべきだと思われるのだ。それは、教義が通用しなくなり、動揺しているということは、実は、教義そのものが不安定な社会に対応しようとしている精一杯の、自己保存的反応なのだという事である。逆の状況を考えてみると良い。どんな状況にも対応出来る教義、なるほど、それは「無謬」「完璧」という意味で、一部の人の「嗜好」を満たす教義になるかもしれない。でも、我々は知っているはずだ、そんな完璧な教義には何の価値も無いことを。

それは要するに、世間にある様々な事象を、教義の側から解釈してしまうことで、解決した気になってしまうことをいう。例えば、あの世(浄土とか)を設定して、所詮この世界は矛盾なのであり、あの世に行けば救われる、というような教義があったとしても、これでこの世で救われる可能性は無いし、教義の方は厳然として残り続けてしまう。しかも、教義の運営者は、解決したつもりにすらなってしまうことだろう。これは意味のあることなのだろうか?

よって、教義とは常に真理と現実との間で揺れ動くものだといえる。そして、この揺れ動きは、「不安定」ではあるが、だからこそ、「見かけだけの安定よりも安定」なのである。また、多くの事象に対応可能だともいえる。以前、岩波文庫版『正法眼蔵(全3巻)』を考訂した衛藤即応先生は、教え子達に向かって、「分からないところがある眼蔵家になって欲しい」というようなことを仰ったという。

この一句についても、これまではどこか、謙虚に学ぶ人を求めての発言だと思っていた。だが、世間一般に於いて、『正法眼蔵』を敷衍していくことを考えると、結局は『正法眼蔵』であっても、「全部分かった」ことにして、それ以上解釈の可能性が無くなる状況が、最も悩ましいともいえる。要するに、分からない要素があることは、同時に、それまでの自分が学んできた内容への吟味へと展開し、調整が効くことを意味している。これは、外面的には『正法眼蔵』を柔軟に伝えうる良き教化者となるし、内面的にも常に学びを怠らない良き学人となる。

結局、たった1つの教義のみを立て、それで全部が済むと思うのは「怠惰」なのだ。飛行機の操縦で怠惰であれば、結局は落ちることとなる。では、この飛行機の操縦を、宗教団体の運営に置き換えてみればどうだろう?結果は同じであろう。落ちるのだ。だからこそ、常に学ぶ事の大切さを忘れてはならないといえる。

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