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「松殿禅定閣」という人

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道元禅師は、具体的な年代こそ不明であるが、「松殿禅定閣」という人の猶子(遺産相続権の無い養子)になったことがあり、その人が持っていた木幡山荘を抜け出して比叡山に向かった。具体的には以下のような記述で知られる。

時に松殿の禅定閣は、関白摂家職の者なり。天下に並びなし。王臣の師範なり。此人、師を納て猶子とす。家の秘訣を授け、国の要事を教ゆ。十三歳の春、即ち元服せしめて、朝家の要臣となさんとす。
    瑩山紹瑾禅師提唱『伝光録』第51章

それで、この道元禅師を猶子にした「松殿の禅定閣」だが、具体的に誰のことを指すか議論があった。今でも、Wikipediaの記述を見ると、藤原師家(基房の子)をもって、その人だとしているようだが、この説は江戸時代の面山瑞方師が強く主張している。自身が編んだ『訂補建撕記』「松殿考」では、以下のように指摘する。

又治承三年(註・1179)に基房備前に配流とあれば、祖誕生より二十二年以前なり。しかれば基房の祖師を猶子にせんとせられしとあるは時代違却なり。基房の子の師家にて時代相応なり。基房・師家、父子共に松殿と称せしゆへに、祖伝を編する人、古来采違へたり。
    カナをかなに改める

この説には、幾つか問題がある。まず基房の備前への流罪の件だが、翌年には許されて京に帰っている。よって、面山師は配流以降、基房が常に備前にいたように理解されたようだが、それは間違いである。また、師家が「松殿」と称したことだが、これは面山師が参照した『大系図』第三巻にそうあったようだが、これも現在の状況では否定されている。『尊卑分脈』では、師家は「松殿」とは称した形跡が無い。むしろ、弟で正二位大納言に進んだ藤原忠房が松殿を継いだようである。なお、様々な記録を見ると、確かに師家にも「小松殿」などと呼んでいる文献があるが、これは「松殿基房の子供」という意味である。

よって、松殿禅定閣を師家と断定する面山師の論証は、無理がある。

なお、面山師は多分『伝光録』を読んでいないのだが(或いは、読んでいたとしても、第44章の取り扱いの一件で、封印した可能性はある)、それにしても、この松殿禅定閣の記述を見ていれば、師家とはしなかったことだろう。それは、ここでいわれている「松殿禅定閣」の優れた知識について、「天下に並びなし。王臣の師範なり」とまでしている。これは、父の七光りで若くして高位に進んだ師家のことではあるまい。むしろ、この称讃は基房にこそ期せられなくてはならない。

松殿基房は、父・藤原忠通から九条流・御堂流などの有職故実を習得していたという。これらは朝廷の運営に必要な行事や作法、或いは故事来歴などをまとめた知識体系のことで、藤原道長以来藤原氏の朝廷支配を決定付けていたという。基房はその第一人者であり、政治的には失脚した後も、この知識によって重んじられたというから、ちょうど『伝光録』の記述と一致する。いや、拙僧などは前から、この松殿禅定閣は基房のことだと思って疑わず、自分の文章にもそうやって書いていたので、Wikipediaの記述には驚くばかりであった。

Wikipediaの記述は、特に曹洞宗に関する項目に限定して申し上げれば、未だに面山師(と、それを受けた大久保道舟博士)が打ち立てた知識体系に依存しているといわざるを得ない。もちろん、面山師の見解がかなりの影響力を持っていた時もあったし、今でももちろん、総体としてその業績は抜き難く、ただただ仰ぐのみである。とはいえ、厳密な考証に基づく歴史的見解の幾つかは難しい(なお、このブログの考証も、厳密とは言い難いが・・・)。既にほとんど批判されているといって良いとも思う。

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