今日11月21日は、曹洞宗大本山總持寺御開山・太祖瑩山紹瑾禅師が降誕された日であるとされます。
そこで、毎年この日は、瑩山禅師の降誕を祝い、かつ、顕彰するための記事をアップするようにしています。
例年ですと、お生まれになった状況を記し、瑩山禅師のお母様が持っておられた観音信仰の優れた様子をお伝えするのですが、毎年続けることに意味がありますので、見ていきたいと思います。
然るに、悲母三十七歳、夢に朝日の光の暖かなるを呑む。覚めるや胎に即ち孕胎せん、是に於いて、悲母、この本尊に祈誓して曰く、「我が妊子、聖人と為り、大善知識と為り、人天の為に、益有る人なるべくば、産み平安に生きん、然らずんば、観音の威神力を以て腹内の朽くべし」と、祈誓し告げて、毎日、三千三百三十三拝、観音経を読み七月に至る。安安に産所に行く路に生まれる、名けて行生とす。彼の産所は、越前国、多禰観音の敷地なり。
大乗寺秘本『洞谷記』
瑩山禅師の母、懐観大師は瑩山禅師を37歳で身ごもられたと伝えられます。念持仏であった、十一面観音を本尊として祈っていたのですが、或る時、朝日を呑む夢を見、目覚めると妊娠に気付いたのです。その時、瑩山禅師のお母様は、もし、この胎内の子供が、聖人となり、優れた指導者(=大善知識)となり、多くの者のために益を及ぼす人となるのなら、このまま生まれ、平安に生かして欲しいとし、もし、そうではないのなら、このまま胎内で朽ち果てさせて欲しいとするのです。
今思っても、かなりの内容を持つ願いだといえます。それほどに、我が子に掛ける思いがあったということなのでしょう。
しかも、それからというもの、毎日観音に向かって、三千三百三十三拝をしたとされます。「三十三」という数字は、観音が示現する化身の数ともされていて、だからこそ、各地に「観音菩薩三十三霊場」があるわけですが、その数字に因んだ「三千三百三十三拝」です。しかし、普通に考えて、この数字は我々成人男性でも無理がある数字です。出来ないとはいいませんが、おそらく、一度行えば、それだけで1日が終わってしまうような数字です。「百拝」をするだけでも、数時間かかかることもあります。
よって、拙僧などは「数多くの礼拝をした」というくらいの意味で考えているのですが、これはもちろん間違っているかもしれません。実際に行った可能性は、考慮に残しておく必要があると考えています。また、『観音経』を七ヶ月にわたって読誦されたことについては、その中に男女の産み分けと、更には親が望む子を得られる功徳が示されていますので、「聖人」として生まれて欲しいと願っていたお母様からすれば、この読誦は当然のことと考えられていたことでしょう。
このようにして、お母様の強い願いを受けてお生まれになった瑩山禅師は、その後の御生涯について既に、【今日は曹洞宗の両祖忌です】などで論じた通りですので、ここでは重ねて論じることは致しませんけれども、まさに「観音信仰」の一端を垣間見ることが出来る、瑩山禅師御生誕の奇瑞でございました。
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然るに、悲母三十七歳、夢に朝日の光の暖かなるを呑む。覚めるや胎に即ち孕胎せん、是に於いて、悲母、この本尊に祈誓して曰く、「我が妊子、聖人と為り、大善知識と為り、人天の為に、益有る人なるべくば、産み平安に生きん、然らずんば、観音の威神力を以て腹内の朽くべし」と、祈誓し告げて、毎日、三千三百三十三拝、観音経を読み七月に至る。安安に産所に行く路に生まれる、名けて行生とす。彼の産所は、越前国、多禰観音の敷地なり。
大乗寺秘本『洞谷記』
瑩山禅師の母、懐観大師は瑩山禅師を37歳で身ごもられたと伝えられます。念持仏であった、十一面観音を本尊として祈っていたのですが、或る時、朝日を呑む夢を見、目覚めると妊娠に気付いたのです。その時、瑩山禅師のお母様は、もし、この胎内の子供が、聖人となり、優れた指導者(=大善知識)となり、多くの者のために益を及ぼす人となるのなら、このまま生まれ、平安に生かして欲しいとし、もし、そうではないのなら、このまま胎内で朽ち果てさせて欲しいとするのです。
今思っても、かなりの内容を持つ願いだといえます。それほどに、我が子に掛ける思いがあったということなのでしょう。
しかも、それからというもの、毎日観音に向かって、三千三百三十三拝をしたとされます。「三十三」という数字は、観音が示現する化身の数ともされていて、だからこそ、各地に「観音菩薩三十三霊場」があるわけですが、その数字に因んだ「三千三百三十三拝」です。しかし、普通に考えて、この数字は我々成人男性でも無理がある数字です。出来ないとはいいませんが、おそらく、一度行えば、それだけで1日が終わってしまうような数字です。「百拝」をするだけでも、数時間かかかることもあります。
よって、拙僧などは「数多くの礼拝をした」というくらいの意味で考えているのですが、これはもちろん間違っているかもしれません。実際に行った可能性は、考慮に残しておく必要があると考えています。また、『観音経』を七ヶ月にわたって読誦されたことについては、その中に男女の産み分けと、更には親が望む子を得られる功徳が示されていますので、「聖人」として生まれて欲しいと願っていたお母様からすれば、この読誦は当然のことと考えられていたことでしょう。
このようにして、お母様の強い願いを受けてお生まれになった瑩山禅師は、その後の御生涯について既に、【今日は曹洞宗の両祖忌です】などで論じた通りですので、ここでは重ねて論じることは致しませんけれども、まさに「観音信仰」の一端を垣間見ることが出来る、瑩山禅師御生誕の奇瑞でございました。
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