今日、11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」ということのようです。我々曹洞宗では、しばしば、法要の回向文で「家内安全」を祈ることもあり、良い夫婦は、檀信徒の良い模範ともいえるというのが、まずこれまでの通説であったかと思います。その結果、子々孫々まで繁栄し、歴代にわたって寺院を護持下さることを願うという構造だったわけです。
ところが、現代では、「単身世帯」、つまり、独り暮らしの状況が3割を超えたといわれています。例えば、こんな本やニュースがあります。
・藤森克彦氏『単身急増社会の衝撃』(日本経済新聞出版社、2010年5月)
・単身世帯、初めて3割超える 国勢調査速報(J-CASTニュース、2011年6月)
よって、現状、婚姻関係にある夫婦は、もちろん檀信徒の多数を占めるとはいえ、一方で単身世帯も次々増えているわけです。その点に於いて、寺院の運営について、大きな支障を来すと思っている方も多いと思います。無論、拙僧も、決して例外ではありません。ただし、拙僧の場合は、もうちょっと別の考え方も持っていて、こういう危機的状況、決して珍しくはなかったのではないか?と思っています。
その理由として、1917年(大正6)7月に刊行された栗山泰音禅師『僧侶家族論』(桜樹下堂、栗山禅師は昭和9年から大本山總持寺独住第八世))に於いて当時の様々な問題点が示されていまして(なお、同著には現代的な視点からは、人権的に問題のある文脈も少なくありませんが、それが却って議論を豊かにし、生々しさを醸し出しています。よって、正視しなくてはならないのです)、その内容は、我々の現状と余り大差無いような「悲観的状況」が示されているためです。まぁ、唯一、そしてこれがとても大きな問題だとは思いますが、明らかな人口減少社会に入りつつあるというのは、厳しいですね。それは現在の、そして今後の問題なので、勿論、歴史的な文脈から適当なる解決法を見出せるとは思いません。
よって、ここで論じるのも、かつての悲観的状況が如何なるものだったのかを見るに留まります。
今の宗門は不振なる宗門である、如何に贔屓目に見て、如何に曲説強弁せんとするも、不振は依然不振たるを免かれない。
然らば、何故に斯く不振なるか、その原因は多々あるべしと雖も、一般僧侶の徳行欠乏して、人前に師表たるべき資格なきこともその一であらう。宗門当路者の手腕貧弱にして一定の宗是なく、一貫の政見なく、様に依て胡蘆を画いて日送りをして居ることもその一であらう。されどその最大主要の原因は、宗門僧侶の妻帯問題未だ解決する能はずして、曖昧模稜に漫過せること、確かにその一である。故にこの問題の解説せざる為め、宗門僧侶の徳行の基礎根柢が浮動遊離して、動物ともつかず、人間ともつかず、況や人天の師表、三界の導師などいへる称呼の附せらるべき実質を有せざるまでに落下して居る。
栗山禅師前掲同著、109〜110頁、文字表現・句読点等改める
良く、日本の僧侶、或いは曹洞宗の僧侶、でも良いですが、1872年(明治5)4月に、それまでの江戸幕府が基本的に僧侶の妻帯を禁止していた(浄土真宗を除く)のに対し、これ以降はそれらを「禁止しない」ということを打ち出したわけです。いわゆる、「肉食妻帯勝手たるべし」という話ですね。で、どうも、一般的にはこれ以降になし崩し的に婚姻をする僧侶がほとんどだったというような意見があるのですが、これは、2つの意味で実際の状況を反映していません。
(1)江戸時代から既に、「公然の秘密」のような状況で妻帯する僧侶がいた。
(2)先の栗山禅師の著作は大正年間だが、その段階でまだ、僧侶の妻帯についての議論があった。
前者については、国学系の仏教批判の側から色々な資料が出され、江戸時代の僧侶の「堕落」を裏付けることとして喧伝されますが、そういう「政治的意図」を離れ、当時の「史料」に当たると、やっぱりかなり多くの僧侶が妻帯していたのだろうと思われるわけです。無論、公には幕府の禁令があり、それこそ『僧侶家族論』の69頁には、『官中秘策』という文献から引いて、「寺持ちの僧」が「遠島」に、「所化僧」が「晒し」に、「間男の僧」が「獄門」になった例を挙げています。なお、『官中秘策』というのは、幕府法令・日記など収録した法制資料だそうで、1775年(安永4年)刊行とのこと。江戸時代初期から中期にかけてのことを知ることが可能な史料なのでしょう。
とはいえ、これらの近世の裏には、当然に報齢の罰則を適用される該当者がおり、或いは、適用されずに済んでいた例もあるわけです。この辺は、寺院の会計の史料や、様々な説話などからも、知ることが可能です。
また、後者については、曹洞宗ではかなりの議論をしたことは明らかで、従来からの修行体系を維持すべきだという場合と、現実に即して、妻帯をしていくべきだという、「反対派」「容認派」と真っ向からぶつかっていたようです。栗山禅師は繰り返し、この両派が相見え、腹の底から議論すべきだと説いていますが、逆にいえば、そういう環境が無く、お互いがお互いを批判する状況が続いていたのでしょう。
そして、例えば、明治時代に大内青巒居士などが主唱して曹洞宗内に造られた教会・結社の1つである「曹洞扶宗会」では、「曹洞宗改進方案」(『扶宗会雑誌25号』1890年7月)を開示して、宗門の改革を進めるように訴えました。そこでは、曹洞宗の現状を鑑み、宗義や寺院、僧侶の立場・資格を2つに分けるべきだとしています。その2つとは、次のような分類が可能です。
・宗義:出家弁道 と 在家唱導
・寺院:弁道地 と 唱導地
・僧侶:弁道師 と 唱導師
要するに、前者は妻帯などを始めとして、一切の仏制に背かず、修行を続けながら一生を送る人です。或いはそういう僧侶が入れる寺院も決めようとしていました。後者は妻帯など一切の禁制無く(無論、国家の法律に違反することはしないが)、一般世間に入って多くの人に法を伝え、導く人と定めており、そういう僧侶が入る寺院も決めようとしていました。参考までに、両大本山の扱いは疑問が残るところがあり、永平寺を総本山に、總持寺を大本山として、永平寺一寺のみで全宗門を統括しようとしていました。そういう状況があって、この「改進方案」は具体化しなかった印象ですが、とはいえ、一部は後にも制度として残りました。つまり、總持寺の貫首を勤めた後、永平寺に晋住するという状況があったのです。それは第二次世界大戦後、永平寺74世・熊澤泰禅禅師が24年間に及ぶ貫首を勤める状況下、両大本山の貫首はそれぞれ別個となり、永平寺は第74世として佐藤泰舜禅師が晋住され、總持寺はその間、渡辺玄宗禅師、孤峰智璨禅師、岩本勝俊禅師と続いたわけです。
当然、各地の寺院に於いても、制度上、これらの2つに分けたという状況はほとんど見られません。稀に、「各寺院の山風(寺院独自の規約)」や、各地の風習によって、寺院住職の世襲を禁止する場合があり、それが守られることもあります。とはいえ、扶宗会がいう程、システム的に分けたという印象はありません。
ただし、ここで論じたいのは、扶宗会が唱えたような「折衷案」が出されなければならないほど、明治20年代の曹洞宗は、色々と矛盾が出ていたということなのです。そして、扶宗会が、実質的に曹洞宗の教化組織の全てを支配したのは、その中に、住職試験免除という特権を、当時の曹洞宗務局側に認めさせていたという要素が外せません。この「住職試験」というのは、資質の有無を確認するためだけの試験ではなく、むしろ、教化方法や内容などを、正しく理解しているかを試すものでした。かつては「三条の教則」が明治政府から押しつけられたときに、その内容を回っての試験だったとされています。
無論、「三条の教則」の押しつけが無くなった後でも試験制度のみ残存したということは、それだけ当時の住職の資質が低下していたと嘆かれていたことの裏返しであり、免除特権を求めて多くが殺到したということは、自分の資質に不安を感じていた住職が多かったということです。そういう状況を経た上での、栗山禅師の見解だといえ、しかも、資質云々よりも、僧侶の妻帯の認可・不認可が大きな問題だと論じています。
つまり、栗山禅師はその時代、男性僧侶が妻帯(実際には女性僧侶の夫帯も問題になるはずだが、日本に於ける両者の決定的な数の違いから、主として論じられない)したとして、それを白眼視するような状況は男性僧侶と結婚した女性に対する差別だと批判し、その上で、様々な経論から菩薩が妻帯を許されることを弁証しようとしたのが、『僧侶家族論』だといえましょう。そして、栗山禅師は夫婦による寺院運営・経営の良さを訴えながら、認めていくべきだとしたのです。
現状も僧侶の妻帯・夫帯についてとやかく発言される方がおられます。とはいえ、各寺院の檀信徒、特に女性の方にとって、住職の既婚・未婚は大きな問題となる場合が多いようで、色々とお励ましいただくことも多いわけです。それは総じて、結婚を否定的に扱うことはなく、むしろ、結婚するのが当然だという内容がほとんどだと思われます。まぁ、何処の世界にも、「異論」を唱える人はいますけれども・・・
さておき、現状を鑑みた際、曹洞宗でも、9割という大多数で結婚するのが当たり前である以上、これを、例えば「戒律」などを持ち出して、別様に展開させようという議論は労力と摩擦ばかりを引き起こし、何の意味も無いと思われます。そうではなく、では、夫婦として寺院を護持していくことの方法を模索し、その上でより良い方向に進むよう努力することが肝要だと思う次第です。この努力とは、檀信徒教化の徹底と、徒弟教育の充実、そして、地域社会への貢献などが主であります。それらは、住職1人で行うことも不可能ではないですが、しかし、ともに努力する家族(曹洞宗では「寺族」という)の存在があった方が良いと思います。これは、寺院側からのみ申し上げるのではなく、檀信徒の方からも同様であると思われます。毎回毎回難しい顔をしている住職よりも、温和な顔をしているその家族の方が良い(或いはその逆などもある)という人もおられることでしょう。
そのような一々を思うと、夫婦というのも、色々と考えさせられますね。まぁ、仏教教団としては、東南アジアなどと、システムが違い過ぎているので、その辺は比較しようもないというわけですよ。今日はそんな結論でございます。
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ところが、現代では、「単身世帯」、つまり、独り暮らしの状況が3割を超えたといわれています。例えば、こんな本やニュースがあります。
・藤森克彦氏『単身急増社会の衝撃』(日本経済新聞出版社、2010年5月)
・単身世帯、初めて3割超える 国勢調査速報(J-CASTニュース、2011年6月)
よって、現状、婚姻関係にある夫婦は、もちろん檀信徒の多数を占めるとはいえ、一方で単身世帯も次々増えているわけです。その点に於いて、寺院の運営について、大きな支障を来すと思っている方も多いと思います。無論、拙僧も、決して例外ではありません。ただし、拙僧の場合は、もうちょっと別の考え方も持っていて、こういう危機的状況、決して珍しくはなかったのではないか?と思っています。
その理由として、1917年(大正6)7月に刊行された栗山泰音禅師『僧侶家族論』(桜樹下堂、栗山禅師は昭和9年から大本山總持寺独住第八世))に於いて当時の様々な問題点が示されていまして(なお、同著には現代的な視点からは、人権的に問題のある文脈も少なくありませんが、それが却って議論を豊かにし、生々しさを醸し出しています。よって、正視しなくてはならないのです)、その内容は、我々の現状と余り大差無いような「悲観的状況」が示されているためです。まぁ、唯一、そしてこれがとても大きな問題だとは思いますが、明らかな人口減少社会に入りつつあるというのは、厳しいですね。それは現在の、そして今後の問題なので、勿論、歴史的な文脈から適当なる解決法を見出せるとは思いません。
よって、ここで論じるのも、かつての悲観的状況が如何なるものだったのかを見るに留まります。
今の宗門は不振なる宗門である、如何に贔屓目に見て、如何に曲説強弁せんとするも、不振は依然不振たるを免かれない。
然らば、何故に斯く不振なるか、その原因は多々あるべしと雖も、一般僧侶の徳行欠乏して、人前に師表たるべき資格なきこともその一であらう。宗門当路者の手腕貧弱にして一定の宗是なく、一貫の政見なく、様に依て胡蘆を画いて日送りをして居ることもその一であらう。されどその最大主要の原因は、宗門僧侶の妻帯問題未だ解決する能はずして、曖昧模稜に漫過せること、確かにその一である。故にこの問題の解説せざる為め、宗門僧侶の徳行の基礎根柢が浮動遊離して、動物ともつかず、人間ともつかず、況や人天の師表、三界の導師などいへる称呼の附せらるべき実質を有せざるまでに落下して居る。
栗山禅師前掲同著、109〜110頁、文字表現・句読点等改める
良く、日本の僧侶、或いは曹洞宗の僧侶、でも良いですが、1872年(明治5)4月に、それまでの江戸幕府が基本的に僧侶の妻帯を禁止していた(浄土真宗を除く)のに対し、これ以降はそれらを「禁止しない」ということを打ち出したわけです。いわゆる、「肉食妻帯勝手たるべし」という話ですね。で、どうも、一般的にはこれ以降になし崩し的に婚姻をする僧侶がほとんどだったというような意見があるのですが、これは、2つの意味で実際の状況を反映していません。
(1)江戸時代から既に、「公然の秘密」のような状況で妻帯する僧侶がいた。
(2)先の栗山禅師の著作は大正年間だが、その段階でまだ、僧侶の妻帯についての議論があった。
前者については、国学系の仏教批判の側から色々な資料が出され、江戸時代の僧侶の「堕落」を裏付けることとして喧伝されますが、そういう「政治的意図」を離れ、当時の「史料」に当たると、やっぱりかなり多くの僧侶が妻帯していたのだろうと思われるわけです。無論、公には幕府の禁令があり、それこそ『僧侶家族論』の69頁には、『官中秘策』という文献から引いて、「寺持ちの僧」が「遠島」に、「所化僧」が「晒し」に、「間男の僧」が「獄門」になった例を挙げています。なお、『官中秘策』というのは、幕府法令・日記など収録した法制資料だそうで、1775年(安永4年)刊行とのこと。江戸時代初期から中期にかけてのことを知ることが可能な史料なのでしょう。
とはいえ、これらの近世の裏には、当然に報齢の罰則を適用される該当者がおり、或いは、適用されずに済んでいた例もあるわけです。この辺は、寺院の会計の史料や、様々な説話などからも、知ることが可能です。
また、後者については、曹洞宗ではかなりの議論をしたことは明らかで、従来からの修行体系を維持すべきだという場合と、現実に即して、妻帯をしていくべきだという、「反対派」「容認派」と真っ向からぶつかっていたようです。栗山禅師は繰り返し、この両派が相見え、腹の底から議論すべきだと説いていますが、逆にいえば、そういう環境が無く、お互いがお互いを批判する状況が続いていたのでしょう。
そして、例えば、明治時代に大内青巒居士などが主唱して曹洞宗内に造られた教会・結社の1つである「曹洞扶宗会」では、「曹洞宗改進方案」(『扶宗会雑誌25号』1890年7月)を開示して、宗門の改革を進めるように訴えました。そこでは、曹洞宗の現状を鑑み、宗義や寺院、僧侶の立場・資格を2つに分けるべきだとしています。その2つとは、次のような分類が可能です。
・宗義:出家弁道 と 在家唱導
・寺院:弁道地 と 唱導地
・僧侶:弁道師 と 唱導師
要するに、前者は妻帯などを始めとして、一切の仏制に背かず、修行を続けながら一生を送る人です。或いはそういう僧侶が入れる寺院も決めようとしていました。後者は妻帯など一切の禁制無く(無論、国家の法律に違反することはしないが)、一般世間に入って多くの人に法を伝え、導く人と定めており、そういう僧侶が入る寺院も決めようとしていました。参考までに、両大本山の扱いは疑問が残るところがあり、永平寺を総本山に、總持寺を大本山として、永平寺一寺のみで全宗門を統括しようとしていました。そういう状況があって、この「改進方案」は具体化しなかった印象ですが、とはいえ、一部は後にも制度として残りました。つまり、總持寺の貫首を勤めた後、永平寺に晋住するという状況があったのです。それは第二次世界大戦後、永平寺74世・熊澤泰禅禅師が24年間に及ぶ貫首を勤める状況下、両大本山の貫首はそれぞれ別個となり、永平寺は第74世として佐藤泰舜禅師が晋住され、總持寺はその間、渡辺玄宗禅師、孤峰智璨禅師、岩本勝俊禅師と続いたわけです。
当然、各地の寺院に於いても、制度上、これらの2つに分けたという状況はほとんど見られません。稀に、「各寺院の山風(寺院独自の規約)」や、各地の風習によって、寺院住職の世襲を禁止する場合があり、それが守られることもあります。とはいえ、扶宗会がいう程、システム的に分けたという印象はありません。
ただし、ここで論じたいのは、扶宗会が唱えたような「折衷案」が出されなければならないほど、明治20年代の曹洞宗は、色々と矛盾が出ていたということなのです。そして、扶宗会が、実質的に曹洞宗の教化組織の全てを支配したのは、その中に、住職試験免除という特権を、当時の曹洞宗務局側に認めさせていたという要素が外せません。この「住職試験」というのは、資質の有無を確認するためだけの試験ではなく、むしろ、教化方法や内容などを、正しく理解しているかを試すものでした。かつては「三条の教則」が明治政府から押しつけられたときに、その内容を回っての試験だったとされています。
無論、「三条の教則」の押しつけが無くなった後でも試験制度のみ残存したということは、それだけ当時の住職の資質が低下していたと嘆かれていたことの裏返しであり、免除特権を求めて多くが殺到したということは、自分の資質に不安を感じていた住職が多かったということです。そういう状況を経た上での、栗山禅師の見解だといえ、しかも、資質云々よりも、僧侶の妻帯の認可・不認可が大きな問題だと論じています。
つまり、栗山禅師はその時代、男性僧侶が妻帯(実際には女性僧侶の夫帯も問題になるはずだが、日本に於ける両者の決定的な数の違いから、主として論じられない)したとして、それを白眼視するような状況は男性僧侶と結婚した女性に対する差別だと批判し、その上で、様々な経論から菩薩が妻帯を許されることを弁証しようとしたのが、『僧侶家族論』だといえましょう。そして、栗山禅師は夫婦による寺院運営・経営の良さを訴えながら、認めていくべきだとしたのです。
現状も僧侶の妻帯・夫帯についてとやかく発言される方がおられます。とはいえ、各寺院の檀信徒、特に女性の方にとって、住職の既婚・未婚は大きな問題となる場合が多いようで、色々とお励ましいただくことも多いわけです。それは総じて、結婚を否定的に扱うことはなく、むしろ、結婚するのが当然だという内容がほとんどだと思われます。まぁ、何処の世界にも、「異論」を唱える人はいますけれども・・・
さておき、現状を鑑みた際、曹洞宗でも、9割という大多数で結婚するのが当たり前である以上、これを、例えば「戒律」などを持ち出して、別様に展開させようという議論は労力と摩擦ばかりを引き起こし、何の意味も無いと思われます。そうではなく、では、夫婦として寺院を護持していくことの方法を模索し、その上でより良い方向に進むよう努力することが肝要だと思う次第です。この努力とは、檀信徒教化の徹底と、徒弟教育の充実、そして、地域社会への貢献などが主であります。それらは、住職1人で行うことも不可能ではないですが、しかし、ともに努力する家族(曹洞宗では「寺族」という)の存在があった方が良いと思います。これは、寺院側からのみ申し上げるのではなく、檀信徒の方からも同様であると思われます。毎回毎回難しい顔をしている住職よりも、温和な顔をしているその家族の方が良い(或いはその逆などもある)という人もおられることでしょう。
そのような一々を思うと、夫婦というのも、色々と考えさせられますね。まぁ、仏教教団としては、東南アジアなどと、システムが違い過ぎているので、その辺は比較しようもないというわけですよ。今日はそんな結論でございます。
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