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臨終行儀の大切さについて

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「臨終行儀」という言葉がある。これは、まさに死に臨んで(これが臨終)行われる仏道修行である。特にこれが必要なのは、生前に功徳を積んでいなかった非仏教徒である。日本では、こういった臨終行儀全般を否定した専修念仏の誕生・伸張などもあり、それ程重んじられてはいないように思われるが、しかし、専修念仏以外は必要とするように思う。特に、彼らによって「自力の仏教」というカテゴリーに分けられてしまった我々のような禅宗では・・・

さて、何故臨終に修行するかといえば、当然に良いところに生まれ変わりたいためである。或いはその結果、いつかは成仏するためである。そのようなことを考える時、以下の道元禅師の言葉は、我々に臨終行儀の大切さを再認識させてくれる。

或いは生前、未だ三宝を信ぜずと雖も、臨命終の時、小功徳を修せば、早く須らく聴許すべし。
    『永平寺知事清規

この一文の前には、かの有名な須達長者の話(例えば、【クリスマスイブだから須達長者の話でも・・・】参照)も出ていて、そのようにとにかく優れた在家信者もいるけれども、しかし、この一文を道元禅師が記されているということは、現代と同様に、当時も生前は三宝を信ぜず、むしろ悪く言っていたような人であっても、死ぬ間際に「小功徳」を修行して、如来に許されるべきだというのである。「小功徳」というのは、わずかな功徳である。例えば、以下の一文は、そのような内容として知られるであろう。

いま提婆達多、かさねて三逆をつくれり、一逆つくれる罪人の苦には、三陪すべし。しかあれども、すでに臨命終のときは、南無の言をとなへて、悪心、すこしきまぬかる。うらむらくは、具足して南無仏と称せざること。
    『正法眼蔵』「三時業」巻

提婆達多は、仏陀釈尊の従兄弟でありながら、仏陀に逆らい、殺そうとまでした大悪人とされる。ところが、死に臨んで「南無」と称えたため、その悪心がわずかばかり抜け、その後『妙法蓮華経』「提婆達多品」に見る如く、仏道に進んだのである。道元禅師はこれは「南無」の功徳であったという。もし、「南無仏」と称えられればなお良かったともいっている。その点では、以下の説示も参照すべきである。

また、この生のをはるときは、二つの眼、たちまちにくらくなるべし。そのときを、すでに生のをはりとしりて、はげみて、南無帰依仏、ととなへたてまつるべし。このとき、十方の諸仏、あはれみをたれさせたまふ縁ありて、悪趣におもむくべきつみも転じて、天上にむまれ、仏前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、仏のとかせたまふのりを、きくなり。
    『正法眼蔵』「道心(仏道)」巻

道元禅師はこのように、臨終行儀について述べている。生の終わりに望んで、2つの眼が暗くなってくるとき、それは本人の意志には関係が無い、そういう時こそ、最期の力を振り絞って、南無帰依仏と称えるべきなのである。その時、十方の諸仏は、その豊富に持ちたる慈悲心によって、本来は生前の罪のために思うに任せない後生になったかもしれないところを転じて、天上に生まれ、更に仏前に生まれ、そこで仏を拝み奉り、仏が説かれた法を聞くことにより、その後成仏出来るようになるのである。

上記引用文の最後の部分だけ見ると、何とも浄土教的ではある。それと思われる文章と比べてみると、その想いはますます強くなる。

されば辺地に生るるものは、五百歳のあひだ、仏をもみたてまつらず、法をもきかず、諸仏にも歴事供養せず。報土に生るるものは、一念須臾のあひだにもろもろの功徳をそなへて如来の相好をみたてまつり、甚深の法門をきき、一切の諸仏に歴事供養して、こころのごとく自在を得るなり。
    存覚上人『浄土真要鈔(末)』

同書は存覚上人が、元亨4年(1324)正月6日に了源に与えたものである。曹洞宗的な年代感でいうと、時代は瑩山禅師の晩年である。『瑩山清規』と同じ時期に書かれたものだと理解して良い。その中、先ほどの「道心」巻と比べてみると、何とも同じような文脈だと分かるであろう。無論、道元禅師の「南無仏」という時の「仏」は釈迦牟尼仏(道元禅師にとって、釈迦牟尼仏は未だ、兜率天にいる存在であるという。この典拠は『仏本行集経』などを受けた『正法眼蔵』「行仏威儀」巻であろう)であるが、阿弥陀仏と釈迦牟尼仏、結局その偉大な力が、我々にとってどのように利益を及ぼして下さるかを考えるとき、同じ様なことになってしまったような印象を受ける。

なお、こういうことがあるので、我々も頻りに臨終の『遺教経』読誦を行うのであるし、生前、最期の時で良いから、受戒をするように勧めているのである。受戒をするときには、必ず「三帰戒」を受ける。「南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧」と称えるのだから、まさに道元禅師が仰る最低限の臨終行儀には契ってしまう。よって、これで良いのだ。死んでアタフタする前に、最期、意識がある最後の時、僧侶を枕元に読んでくださる、真の在家信者を拙僧は求む。

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