現在、我々が知っている永平寺の世代がありますが、一説にこれは、永平寺50世・玄透即中禅師(1729〜1807)が自らを50世にするために、様々な世代を抜いて作ったものであるともされています。実際に總持寺の峨山韶碩禅師の系統から、何人かが永平寺を助けるために住持したことなども考えられていて、この辺の住持の歴史は色々な意味で問題点があるわけです。今日、紹介する一文もその1つになります。
日本八坂の戒妙西堂は、建仁寺西堂なり。永光寺二代の時に於いては行われず近来此の儀有り、又、三日、大渡の前住、其の名は智照、寒巌和尚の小師なり。永平寺曇希和尚住院の時に参暇して、西堂位を競望すと雖も、敢えて聴許せず、上座の位に処す、夏末に至り首座に任ぜらる。乃ち請して永平に住持せしむ。是れ則ち自家訓訣の一介なり。又、中頃、雲和尚の時、南禅寺の西堂、道英首座、永平寺に於いては、竟に行われず。
『洞谷記』「住持人の帯ぶべき文書のこと」、下線は拙僧
・・・一体誰なんでしょうかね、この智照という僧侶は。いや、一応寒巌義尹禅師(1217〜1300)の弟子であるとされており、時代的には永平寺六世曇希禅師(1297?〜1350?)が永平寺にいたときの時代(1333〜示寂まで)ですので、少なくとも永光寺では瑩山禅師の亡き後、明峰素哲禅師(1277〜1350)の永光寺住持時代(1325〜1338/42)であろうかと存じます。
なお、この一件ですが、先行研究の成果などを見ると、何を言っているか不明であるとしている場合が多いようです。確かに、我々の常識からすれば、曇希禅師の次に永平寺の住持として晋住したのは以一禅師(生没年不詳)であるとされていて、この方の伝記を見ても、義尹禅師に参学したとは出ていないようです。
なんだか良く分かりません。とりあえず、八坂というのは、京都の八坂神社のことでしょうか?その戒妙という人が、合わせて建仁寺の西堂だったということのようです。そして、このような方法は、永光寺二代(明峰素哲禅師)の時には行われなかったが、「近来=最近」は行われているようです。
そこで、大渡という場所(これも不明)の前住が、名前を智照といい、寒巌禅師の弟子だったというわけです。それで、永平寺6世の曇希禅師の時代に、多分、永平寺に入って西堂位を望んだようですが、許可はされなかったようで、上座だったようです。この辺は、『正法眼蔵』「安居」巻の影響でしょうか?大きな寺院でもない限り、「前住位」を強調しない方が良いとされているためです。ただし、夏安居の末にいたって、首座となり、そして拝請されて永平寺に住持させたとのこと。
一体、誰なんでしょうかね?
『永平寺年表』に、何か書いてあるかと思いましたが、何も無し。結局、良く分からないという話で終わる記事でございました。
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日本八坂の戒妙西堂は、建仁寺西堂なり。永光寺二代の時に於いては行われず近来此の儀有り、又、三日、大渡の前住、其の名は智照、寒巌和尚の小師なり。永平寺曇希和尚住院の時に参暇して、西堂位を競望すと雖も、敢えて聴許せず、上座の位に処す、夏末に至り首座に任ぜらる。乃ち請して永平に住持せしむ。是れ則ち自家訓訣の一介なり。又、中頃、雲和尚の時、南禅寺の西堂、道英首座、永平寺に於いては、竟に行われず。
『洞谷記』「住持人の帯ぶべき文書のこと」、下線は拙僧
・・・一体誰なんでしょうかね、この智照という僧侶は。いや、一応寒巌義尹禅師(1217〜1300)の弟子であるとされており、時代的には永平寺六世曇希禅師(1297?〜1350?)が永平寺にいたときの時代(1333〜示寂まで)ですので、少なくとも永光寺では瑩山禅師の亡き後、明峰素哲禅師(1277〜1350)の永光寺住持時代(1325〜1338/42)であろうかと存じます。
なお、この一件ですが、先行研究の成果などを見ると、何を言っているか不明であるとしている場合が多いようです。確かに、我々の常識からすれば、曇希禅師の次に永平寺の住持として晋住したのは以一禅師(生没年不詳)であるとされていて、この方の伝記を見ても、義尹禅師に参学したとは出ていないようです。
なんだか良く分かりません。とりあえず、八坂というのは、京都の八坂神社のことでしょうか?その戒妙という人が、合わせて建仁寺の西堂だったということのようです。そして、このような方法は、永光寺二代(明峰素哲禅師)の時には行われなかったが、「近来=最近」は行われているようです。
そこで、大渡という場所(これも不明)の前住が、名前を智照といい、寒巌禅師の弟子だったというわけです。それで、永平寺6世の曇希禅師の時代に、多分、永平寺に入って西堂位を望んだようですが、許可はされなかったようで、上座だったようです。この辺は、『正法眼蔵』「安居」巻の影響でしょうか?大きな寺院でもない限り、「前住位」を強調しない方が良いとされているためです。ただし、夏安居の末にいたって、首座となり、そして拝請されて永平寺に住持させたとのこと。
一体、誰なんでしょうかね?
『永平寺年表』に、何か書いてあるかと思いましたが、何も無し。結局、良く分からないという話で終わる記事でございました。
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