道元禅師は、出家者が親を供養する必要は無いと説いた、と良くいわれます。この結果、今でも、現状の葬式仏教批判の一環として、道元禅師の言葉を引いたりする人が後を絶ちませんが、その文脈は以下の通りです。
衲子は父母の恩の深き事をば実のごとく知るべし。余の一切また同じく重くして知るべし。別して一日をしめて殊に善を修し、別して一人をわきて回向をするは仏意にあらざる歟。戒経の「父母兄弟死亡の日」の文は、暫く在家に蒙らしむ歟。大宋の叢林の衆僧、師匠の忌日にはその儀式あれども、父母の忌日は是れを修したりとも見えざるなり。
『正法眼蔵随聞記』巻3-16
要するに、この一文で言わんとしているのは、出家者たる者、父母の恩が深いことを知るべきだといいます。つまり、親の供養をしないというのは、親不孝では無いというわけです。ただ、父母だけでは無く、他の一切の存在についても恩が深いのだから、親のみに対して、特に一日を設けて善行をし、回向して供養するというのは、仏の真意では無いというわけです。そして、「戒経(=梵網経のこと)」にある「父母兄弟死亡の日」の文というのは、在家向けのものであり、中国に行ったときにも、修行僧の中には、師匠が亡くなった日にはこういう儀式をしているけれども、自分の父母の忌日にはそれを行った形跡は無いというわけです。なお、拙ブログでは何度も指摘していますが、晩年、永平寺に入られてからの道元禅師は、両親に対する追善の供養(上堂)をしていますので、この辺の考えは変わったものと思われます。
では、ここで、道元禅師が指摘されている「父母兄弟死亡の日」の文とは何なのでしょうか?以下に見ていきたいと思います。
なんじ仏子、慈心を以ての故に放生の業を行ぜよ。一切の男子は、是れ我が父なり。一切の女人は、是れ我が母なり。我れ生生にこれに従って生を受けざること無し。故に六道の衆生は皆な是れ我が父母なり。而して殺して而も食するは、即ち我が父母を殺し、亦た我が身をも殺すなり。一切の地・水は是れ我が先身、一切の火・風は是れ我が本体なり。故に常に放生を行じ、生生に生を受くる常住の法をもて、人を教えて放生せしめよ。若し世人の、畜生を殺すを見たる時は、応に方便して救護し、その苦難を解き、常に教化して菩薩戒を講説し、衆生を救度すべし。若し父母・兄弟の死亡の日には、応に法師を請して菩薩戒経を講ぜしめて福をもて亡者を資け、諸仏を見ることを得て、人・天上に生ぜしむべし。若し爾らずんば、軽垢罪を犯す。
第二十不救存亡戒
この文章でいわれているのは、要するに「慈悲心」でもって、「放生会」を営むべきだということが、まず説かれています。これは、魚や鳥などを捕らえておいて、それを放つという儀式です。生き物を解き放ち慈悲心を示すことで、功徳を積むのです。浦島太郎なども、放生の1パターンになります。『梵網経』ではその根拠として、一切の男子は自分の父、一切の女人は自分の母として考えることが肝要だと言います。そして、この命は、両親から生まれたわけですから、よって、一切の衆生の男女は、自分の父母なのだから、重んじなくてはならず、殺すことは出来ない、とされているわけです。『梵網経』では、軽戒で強く肉食の否定を行いますが、その思想的根拠の1つがこの箇所になります。また菩薩行として行われるべきなので、自分だけでは無く、全ての人に放生を勧め、衆生を救度するように促すよう、菩薩戒も唱えるべきだとされています。以前指摘した通り、『梵網経』に於ける戒の本質は「仏性戒」と「孝順戒」にあります。そこで、このような道歌が知られています。
六つの道 遠近迷ふ 輩は 吾が父ぞかし 吾が母ぞかし
『道元禅師和歌集』
この道元禅師の和歌も、まさに先の戒の本文を受けて示された教えといえましょう。
さて、「衆生の救度」は、単純に生者のみに留まりません。そこで、先ほど問題にした「父母兄弟死亡の日」の話が出てきます。父母や兄弟が亡くなった日には、法師を請して『菩薩戒経(=梵網経)』を講義させ、その善福をもって亡者に回向するように促しています。何故『梵網経』が、このような効果を発揮するかと言えば、既に、当連載に於ける【「第六不説過戒」】でも示した通りですが、道元禅師の弟子達は、「説過」の逆として、「一切衆生悉有仏性」「三界我有」などの文脈を通して、一切の衆生が仏性そのものの存在だと示すことが肝要で、また三界に生きる衆生は皆、仏陀の弟子だと示しています。よって、三界には六道が含まれますから、あらゆる衆生が皆な仏の存在となるように、或いはそうあらしめるように努力する必要が、菩薩に生じます。よって、喩え死者に対してであっても努力するのです。そもそも、この世の衆生から見られた「死者」は同時に、「六道に生きる衆生」ですから、結局は「三界我有」の大慈悲心の下では、一切は「生者」として救済の対象となるのです。最近の「死者供養否定論」には、この観点が決定的に抜けています。要するに、現世中心主義を、無批判に伝統仏教に当てはめている愚考に気付いていないわけですな。
家族が積んだ善行の功徳が、結果的に思う死者にめぐらされたとき、その死者は良い功徳を得て、諸仏を見ることを得て、人間界・天上界に生じ、更に仏縁を深めるのです。これこそが、我々が死者供養を行う第一義だといえましょう。ところで、この箇所について、道元禅師の直弟子達は、非常に興味深い指摘をしています。
第二十、尽十方界真実人体と談ずるには、男女父母とわきがたけれども、しばらく六道の衆生とをき、先身は火風ともたつる也。殺生をろそるる故に畜生を殺すを見る時、方便して救護せよと云也。「父母兄弟死亡之日菩薩戒経を講じて福をもて亡者を資け、諸仏を見ることを得て、人・天上に生ぜしむべし」とあり。仏者に非ずんば、争か仏を見るべきか。又、人・天上に生ずること、他界に似るべからず。最も憑く有り。今此の経文の「人・天上に生ぜしむ」と云文を見ては、人と天上に生と心得るは然るべからず。人・天上と指すは仏果菩提の事也。是こそ人・天上にてはあれ。
経豪禅師『梵網経略抄』
要するに、尽十方界真実人体であるから、一切の衆生を救護せよという話があり、それは既に論じた内容とほぼ同じです。そして、興味深いと述べたのは後半に当たります。ここでは、「人・天上に生ぜしむ」について、これを「他界」の如く考えてはならず、これは「仏果菩提」だと考えるべきだというのです。転生を繰り返して、菩薩として徐々に仏果に到るというよりも、よりラディカルに「成仏」へと近づいています。また、そもそも仏でなければ仏を見ることは出来無いともされています。確かに、こういう説は、道元禅師『正法眼蔵』「唯仏与仏」巻に見ることが出来ますので、ご参照下さい。
ところで、この一戒について天台智?は、次のように指摘します。
第二十不行放救戒は、危うきを見て済わざるは、慈に乖くが故に制す。菩薩は慈悲を行ずるを本と為す。何ぞ危を見て救わざる容けんや。大士は危を見て命を致すが故なり。
『菩薩戒経義疏(下)』
大士というのは、菩薩ということなので、菩薩は慈悲を行ずることを本となしているとし、衆生の危うい状況を見て救わないのはおかしいとしているわけです。よって、この戒があるとしています。どこまでも慈悲の行いを遂行する必要があるわけです。特に、1995年の阪神・淡路大震災以降、昨年の東日本大震災も含め、日本は多くの災害に見舞われました。そのため、多くの僧侶がボランティア活動に励んでいます。本当にお疲れ様でございます。そこで、このような諸活動を、如何にして理論化し、教義としていくべきなのか?が問われています。実際のところ、教義や宗旨といわれる体系は、非常に硬直化しています。一方で、現場で活動する僧侶は、理論を軽視しています。この両方が、自らを否定して歩み寄る必要が、末木文美士先生『現代仏教論』(新潮新書)で指摘されています。詳しいことは、同著をご覧いただくとしても、坐禅や念仏、唱題で全て済まそうとする時代では無いといえましょう。
さて、今回は「第二十軽戒」でした。『梵網経』の「軽戒」では、十戒ごとに総括する文章が見えます。
是の如きの十戒は、応当に学んで、敬心に奉持すべし。滅罪品の中に、広く一一の戒相を明かすが如し。
『梵網経』
これは、十戒毎に見える挿入文で、それまでの十戒を総括して論じたもののようなのですが、短すぎるのと、必ず「○○品にて説いています」というような内容ではあるのですが、ご承知の通り、『梵網経』はこの「心地戒品」しかないので、良く分からないわけです。まぁ、一説には100巻以上あったのだともされるので、翻訳した鳩摩羅什の頭の中にはあったのかもしれませんが、現存しておりません。
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衲子は父母の恩の深き事をば実のごとく知るべし。余の一切また同じく重くして知るべし。別して一日をしめて殊に善を修し、別して一人をわきて回向をするは仏意にあらざる歟。戒経の「父母兄弟死亡の日」の文は、暫く在家に蒙らしむ歟。大宋の叢林の衆僧、師匠の忌日にはその儀式あれども、父母の忌日は是れを修したりとも見えざるなり。
『正法眼蔵随聞記』巻3-16
要するに、この一文で言わんとしているのは、出家者たる者、父母の恩が深いことを知るべきだといいます。つまり、親の供養をしないというのは、親不孝では無いというわけです。ただ、父母だけでは無く、他の一切の存在についても恩が深いのだから、親のみに対して、特に一日を設けて善行をし、回向して供養するというのは、仏の真意では無いというわけです。そして、「戒経(=梵網経のこと)」にある「父母兄弟死亡の日」の文というのは、在家向けのものであり、中国に行ったときにも、修行僧の中には、師匠が亡くなった日にはこういう儀式をしているけれども、自分の父母の忌日にはそれを行った形跡は無いというわけです。なお、拙ブログでは何度も指摘していますが、晩年、永平寺に入られてからの道元禅師は、両親に対する追善の供養(上堂)をしていますので、この辺の考えは変わったものと思われます。
では、ここで、道元禅師が指摘されている「父母兄弟死亡の日」の文とは何なのでしょうか?以下に見ていきたいと思います。
なんじ仏子、慈心を以ての故に放生の業を行ぜよ。一切の男子は、是れ我が父なり。一切の女人は、是れ我が母なり。我れ生生にこれに従って生を受けざること無し。故に六道の衆生は皆な是れ我が父母なり。而して殺して而も食するは、即ち我が父母を殺し、亦た我が身をも殺すなり。一切の地・水は是れ我が先身、一切の火・風は是れ我が本体なり。故に常に放生を行じ、生生に生を受くる常住の法をもて、人を教えて放生せしめよ。若し世人の、畜生を殺すを見たる時は、応に方便して救護し、その苦難を解き、常に教化して菩薩戒を講説し、衆生を救度すべし。若し父母・兄弟の死亡の日には、応に法師を請して菩薩戒経を講ぜしめて福をもて亡者を資け、諸仏を見ることを得て、人・天上に生ぜしむべし。若し爾らずんば、軽垢罪を犯す。
第二十不救存亡戒
この文章でいわれているのは、要するに「慈悲心」でもって、「放生会」を営むべきだということが、まず説かれています。これは、魚や鳥などを捕らえておいて、それを放つという儀式です。生き物を解き放ち慈悲心を示すことで、功徳を積むのです。浦島太郎なども、放生の1パターンになります。『梵網経』ではその根拠として、一切の男子は自分の父、一切の女人は自分の母として考えることが肝要だと言います。そして、この命は、両親から生まれたわけですから、よって、一切の衆生の男女は、自分の父母なのだから、重んじなくてはならず、殺すことは出来ない、とされているわけです。『梵網経』では、軽戒で強く肉食の否定を行いますが、その思想的根拠の1つがこの箇所になります。また菩薩行として行われるべきなので、自分だけでは無く、全ての人に放生を勧め、衆生を救度するように促すよう、菩薩戒も唱えるべきだとされています。以前指摘した通り、『梵網経』に於ける戒の本質は「仏性戒」と「孝順戒」にあります。そこで、このような道歌が知られています。
六つの道 遠近迷ふ 輩は 吾が父ぞかし 吾が母ぞかし
『道元禅師和歌集』
この道元禅師の和歌も、まさに先の戒の本文を受けて示された教えといえましょう。
さて、「衆生の救度」は、単純に生者のみに留まりません。そこで、先ほど問題にした「父母兄弟死亡の日」の話が出てきます。父母や兄弟が亡くなった日には、法師を請して『菩薩戒経(=梵網経)』を講義させ、その善福をもって亡者に回向するように促しています。何故『梵網経』が、このような効果を発揮するかと言えば、既に、当連載に於ける【「第六不説過戒」】でも示した通りですが、道元禅師の弟子達は、「説過」の逆として、「一切衆生悉有仏性」「三界我有」などの文脈を通して、一切の衆生が仏性そのものの存在だと示すことが肝要で、また三界に生きる衆生は皆、仏陀の弟子だと示しています。よって、三界には六道が含まれますから、あらゆる衆生が皆な仏の存在となるように、或いはそうあらしめるように努力する必要が、菩薩に生じます。よって、喩え死者に対してであっても努力するのです。そもそも、この世の衆生から見られた「死者」は同時に、「六道に生きる衆生」ですから、結局は「三界我有」の大慈悲心の下では、一切は「生者」として救済の対象となるのです。最近の「死者供養否定論」には、この観点が決定的に抜けています。要するに、現世中心主義を、無批判に伝統仏教に当てはめている愚考に気付いていないわけですな。
家族が積んだ善行の功徳が、結果的に思う死者にめぐらされたとき、その死者は良い功徳を得て、諸仏を見ることを得て、人間界・天上界に生じ、更に仏縁を深めるのです。これこそが、我々が死者供養を行う第一義だといえましょう。ところで、この箇所について、道元禅師の直弟子達は、非常に興味深い指摘をしています。
第二十、尽十方界真実人体と談ずるには、男女父母とわきがたけれども、しばらく六道の衆生とをき、先身は火風ともたつる也。殺生をろそるる故に畜生を殺すを見る時、方便して救護せよと云也。「父母兄弟死亡之日菩薩戒経を講じて福をもて亡者を資け、諸仏を見ることを得て、人・天上に生ぜしむべし」とあり。仏者に非ずんば、争か仏を見るべきか。又、人・天上に生ずること、他界に似るべからず。最も憑く有り。今此の経文の「人・天上に生ぜしむ」と云文を見ては、人と天上に生と心得るは然るべからず。人・天上と指すは仏果菩提の事也。是こそ人・天上にてはあれ。
経豪禅師『梵網経略抄』
要するに、尽十方界真実人体であるから、一切の衆生を救護せよという話があり、それは既に論じた内容とほぼ同じです。そして、興味深いと述べたのは後半に当たります。ここでは、「人・天上に生ぜしむ」について、これを「他界」の如く考えてはならず、これは「仏果菩提」だと考えるべきだというのです。転生を繰り返して、菩薩として徐々に仏果に到るというよりも、よりラディカルに「成仏」へと近づいています。また、そもそも仏でなければ仏を見ることは出来無いともされています。確かに、こういう説は、道元禅師『正法眼蔵』「唯仏与仏」巻に見ることが出来ますので、ご参照下さい。
ところで、この一戒について天台智?は、次のように指摘します。
第二十不行放救戒は、危うきを見て済わざるは、慈に乖くが故に制す。菩薩は慈悲を行ずるを本と為す。何ぞ危を見て救わざる容けんや。大士は危を見て命を致すが故なり。
『菩薩戒経義疏(下)』
大士というのは、菩薩ということなので、菩薩は慈悲を行ずることを本となしているとし、衆生の危うい状況を見て救わないのはおかしいとしているわけです。よって、この戒があるとしています。どこまでも慈悲の行いを遂行する必要があるわけです。特に、1995年の阪神・淡路大震災以降、昨年の東日本大震災も含め、日本は多くの災害に見舞われました。そのため、多くの僧侶がボランティア活動に励んでいます。本当にお疲れ様でございます。そこで、このような諸活動を、如何にして理論化し、教義としていくべきなのか?が問われています。実際のところ、教義や宗旨といわれる体系は、非常に硬直化しています。一方で、現場で活動する僧侶は、理論を軽視しています。この両方が、自らを否定して歩み寄る必要が、末木文美士先生『現代仏教論』(新潮新書)で指摘されています。詳しいことは、同著をご覧いただくとしても、坐禅や念仏、唱題で全て済まそうとする時代では無いといえましょう。
さて、今回は「第二十軽戒」でした。『梵網経』の「軽戒」では、十戒ごとに総括する文章が見えます。
是の如きの十戒は、応当に学んで、敬心に奉持すべし。滅罪品の中に、広く一一の戒相を明かすが如し。
『梵網経』
これは、十戒毎に見える挿入文で、それまでの十戒を総括して論じたもののようなのですが、短すぎるのと、必ず「○○品にて説いています」というような内容ではあるのですが、ご承知の通り、『梵網経』はこの「心地戒品」しかないので、良く分からないわけです。まぁ、一説には100巻以上あったのだともされるので、翻訳した鳩摩羅什の頭の中にはあったのかもしれませんが、現存しておりません。
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