現在は臘八摂心中です。拙ブログでは毎年、摂心に因んで、坐禅に関する記事を短期連載で載せるように心掛けております。今年は、僧堂の坐禅法の基本である道元禅師撰『弁道法』を参究していこうと思っております。
後夜に首座寮前の板の鳴るを聞かば〈此の板、或いは三更の四点、五点、或いは四更の一点、二点、三点、各おの住持人の指揮に随って鳴らす〉、大衆、軽身にして起きよ。卒暴なるべからず。尚お留まって睡臥して大衆に無礼なることを得ざれ。潜かに枕子を把って函櫃の前に安じ、響かし摺むことを得ること莫かれ。恐らくは隣単を動念せんことを。且らく被位に在って被を将って身に著け、蒲団を礙えて坐禅す。切に忌む、眼を閉ずることを。眼を閉ずれば昏生ず。頻頻に眼を開けば、微風、眼に入りて、困、容易に醒む。応に無常迅速にして、道業、未だ明らめざることを念ずべし。動身し、頻呻し、怒気し、上下に扇風して、衆をして動念せしむることを得ざれ。大凡、衆において常に恭敬を生ぜよ。大衆を軽慢することを得ざれ。被を将って頭を幪うことを得ざれ。もし困来るを覚ゆれば、帽被を脱落して、軽身にして坐禅せよ。
其の時節を伺うて、須く後架に赴いて洗面すべし〈時節を伺うとは、大衆の洗面、稍や其の隙を得るなり〉。手巾を携えて左臂に掛く。両端は内に在り、或いは外にあり。抽身して牀を下り、軽身軽歩し、便路を経て後門に赴き、軽く両手をもって簾を掲げて出でよ。若し上間に在らば北頬より出でよ。先ず右の足を出だせ。若し下間に在らば南頬より出でよ。先ず左の足を出だせ。鞋を拖き、地を蹈んで響きを作すことを得ざれ。照堂・槁亭を経過して後架に赴くに、路に在って人に逢うも、相い話すべからず。如し人に逢わざるも、何ぞ敢えて吟咏せん。手を垂れて袖に成すことを得ざれ。手を袖に揖して行け。既に水架に到らば、且らく処有るを待て。衆家に搪揬(騒ぎ混乱させること)することを得ざれ。既に処有るを得ば、即処に洗面せよ。
起床を知らせる合図として、今は「振鈴」がありますが、当時は首座寮前の版が鳴るのを聞いて起きました。起きる時間は、昨日申し上げたように、三更の四点から四更の三点ほどまでに起床の合図を晴らしました。大衆は、それで速やかに起きたのです。しかし、荒々しくしてはなりませんし、一人寝ていることも出来ません。起床が良くなければならないのです。また、この時代、枕は組み立て式だったとされています。だからこそ、今でも睡眠時間になることを「開枕」と言いますが、それは折りたたみ式の枕を開いたわけです。そして、起床して枕を畳んだわけです。ただ、道元禅師は函櫃の前で枕を畳む時に、音を響かして、隣の者を驚かせてはならないとしています。この辺から、形なども想像できますが、詳細は論じません。
さて、起床として枕を畳んだら、「被」、つまり掛け布団を身体に纏ってとりあえず坐禅しました。この時、目を閉じてはならないとしています。眠ってしまうからです。二度寝というやつです。よって、それに陥らないためにも、瞬きを繰り返せば、風が眼に入って醒めるとしていますし、無常迅速の思いを抱くことも大切だとしています。道元禅師もこれらの方法を試されたのかもしれません。余談ですが、瑩山禅師『坐禅用心記』でも様々な眠気覚ましの方法を説いていますが、道元禅師が『弁道法』で示された方法を拡大した印象です。実際に、『瑩山清規』では「日中行法」を示すのに合わせて「十二時中の行履は弁道法・赴粥飯・洗面法・洗浄法の如し」とされ、おそらくは『弁道法』を指していると思われるので、良く参究されていたのでしょう。8歳から10年以上、永平寺で修行された瑩山禅師にしてみれば当然だったと思われます。
なお、道元禅師は、大衆は大衆同士、お互い常に敬う気持ちを忘れず、軽んじてはならないとしています。
それから、掛け布団で頭まで覆ってはならないとしています。眠くなる可能性があるためです。もし、疲労を感じたならば、身体を覆っている掛け布団を下ろして、身軽になって坐禅するように説いています。これは、ゆっくりと起きることと、眠気覚ましとを上手く調整するように説いているのです。
その上で、「洗面法」が示されます。詳細は『正法眼蔵』「洗面」巻にて示されるところですが、「日分行持」に組み込まれた洗面法を『弁道法』から見ていくことにしましょう。既に論じた通り、後夜の坐禅は、ハッキリと目覚めるための「準備運動」のような坐禅です。ですので、その坐禅中に、それぞれ大衆が洗面・歯磨きに行くのです。
洗面を行う場所は「後架」で、これは僧堂の後方に設置された場所です。この時、手巾を持ち左臂に掛けておきます。そして、単を降りてから、身も軽く後門に行き、両手で簾を挙げて出ます。単から降りた時、その下に置かれている「鞋」を履きます。しかし、この「鞋」は音が鳴ることもあるので、それは注意しなくてはなりません。そして、僧堂を出て、照堂(僧堂とその背後にある施設を繋ぐ場所)や槁亭を経過して後架に赴く際には、途中で人に逢っても、話をしてはならず、また、「もし人に逢わざるも、何ぞ敢えて吟咏せん」という指摘は面白いですね。逢わないからって歌を歌ってはならないとしているのです。恐らく、誰かがしたため、道元禅師は禁止されたのでしょう。
そして、威儀ですが、手を垂れて袖にしてはならないようです。また、水架(要するに洗面台)に到ったら、使用できる人数が限られているので、自分で使える場所が空くまで待つ必要があるのです。そして、もし、場所が空いたらサッとその場所に入らなくてはなりません。この辺は、一定の緊張感も持たねばならないところです。ここまでの作法を見て思うことは、他の修行僧に対して迷惑を掛けないように指示されていることが興味深いところです。ここは、「抜群の否定」ということと同義のような教えだと思っております。
洗面の時節、あるひは五更、あるひは昧旦、その時節なり。先師の、天童に住せしときは、三更の三点をその時節とせり。裙・褊衫を著し、あるいは直裰を著して、手巾をたづさへて洗面架におもむく。
『正法眼蔵』「洗面」巻
ところで、今日参究した箇所と同じ文脈を「洗面」巻から引用すると、まずこの箇所が該当します。五更か昧旦(朝だがまだ夜明け前)に行くべきだとします。道元禅師は如浄禅師が「三更の三点」を充てていたとしていますが、これは完全に真夜中(夜の正中)で、当時の天童山の睡眠時間の少なさに驚きます。また、『宝慶記』の記述を受けて、当時は「褊衫・裙子」だったと断言する人がいますが、道元禅師は「あるいは直裰」と、そちらの指示もしています。『弁道法』でも同じです。詳細は後日申し上げます。
雲堂の洗面処は後架なり。後架は照堂の西なり、その屋図つたはれり。庵内および単寮は、便宜のところにかまふ。住持人は、方丈にて洗面す。耆年老宿居処に、便宜に洗面架をおけり。住持人、もし雲堂に宿するときは、後架にして洗面すべし。
同上
昨日、住持人が僧堂で睡眠を取った場合、大衆と同じく洗面をするように述べましたが、その場合も洗面場所は後架ですので、大衆と同じ場所だったことが分かります。明日、「洗面」巻の簡単な解題を申し上げますが、道元禅師は数回にわたって同巻を提唱していたことが分かり、更に『弁道法』にも繰り入れられました。同巻にて、洗面を「仏祖の命脈なり」とまで道得される道元禅師ですが、よほど重視されていたことが分かります。
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後夜に首座寮前の板の鳴るを聞かば〈此の板、或いは三更の四点、五点、或いは四更の一点、二点、三点、各おの住持人の指揮に随って鳴らす〉、大衆、軽身にして起きよ。卒暴なるべからず。尚お留まって睡臥して大衆に無礼なることを得ざれ。潜かに枕子を把って函櫃の前に安じ、響かし摺むことを得ること莫かれ。恐らくは隣単を動念せんことを。且らく被位に在って被を将って身に著け、蒲団を礙えて坐禅す。切に忌む、眼を閉ずることを。眼を閉ずれば昏生ず。頻頻に眼を開けば、微風、眼に入りて、困、容易に醒む。応に無常迅速にして、道業、未だ明らめざることを念ずべし。動身し、頻呻し、怒気し、上下に扇風して、衆をして動念せしむることを得ざれ。大凡、衆において常に恭敬を生ぜよ。大衆を軽慢することを得ざれ。被を将って頭を幪うことを得ざれ。もし困来るを覚ゆれば、帽被を脱落して、軽身にして坐禅せよ。
其の時節を伺うて、須く後架に赴いて洗面すべし〈時節を伺うとは、大衆の洗面、稍や其の隙を得るなり〉。手巾を携えて左臂に掛く。両端は内に在り、或いは外にあり。抽身して牀を下り、軽身軽歩し、便路を経て後門に赴き、軽く両手をもって簾を掲げて出でよ。若し上間に在らば北頬より出でよ。先ず右の足を出だせ。若し下間に在らば南頬より出でよ。先ず左の足を出だせ。鞋を拖き、地を蹈んで響きを作すことを得ざれ。照堂・槁亭を経過して後架に赴くに、路に在って人に逢うも、相い話すべからず。如し人に逢わざるも、何ぞ敢えて吟咏せん。手を垂れて袖に成すことを得ざれ。手を袖に揖して行け。既に水架に到らば、且らく処有るを待て。衆家に搪揬(騒ぎ混乱させること)することを得ざれ。既に処有るを得ば、即処に洗面せよ。
起床を知らせる合図として、今は「振鈴」がありますが、当時は首座寮前の版が鳴るのを聞いて起きました。起きる時間は、昨日申し上げたように、三更の四点から四更の三点ほどまでに起床の合図を晴らしました。大衆は、それで速やかに起きたのです。しかし、荒々しくしてはなりませんし、一人寝ていることも出来ません。起床が良くなければならないのです。また、この時代、枕は組み立て式だったとされています。だからこそ、今でも睡眠時間になることを「開枕」と言いますが、それは折りたたみ式の枕を開いたわけです。そして、起床して枕を畳んだわけです。ただ、道元禅師は函櫃の前で枕を畳む時に、音を響かして、隣の者を驚かせてはならないとしています。この辺から、形なども想像できますが、詳細は論じません。
さて、起床として枕を畳んだら、「被」、つまり掛け布団を身体に纏ってとりあえず坐禅しました。この時、目を閉じてはならないとしています。眠ってしまうからです。二度寝というやつです。よって、それに陥らないためにも、瞬きを繰り返せば、風が眼に入って醒めるとしていますし、無常迅速の思いを抱くことも大切だとしています。道元禅師もこれらの方法を試されたのかもしれません。余談ですが、瑩山禅師『坐禅用心記』でも様々な眠気覚ましの方法を説いていますが、道元禅師が『弁道法』で示された方法を拡大した印象です。実際に、『瑩山清規』では「日中行法」を示すのに合わせて「十二時中の行履は弁道法・赴粥飯・洗面法・洗浄法の如し」とされ、おそらくは『弁道法』を指していると思われるので、良く参究されていたのでしょう。8歳から10年以上、永平寺で修行された瑩山禅師にしてみれば当然だったと思われます。
なお、道元禅師は、大衆は大衆同士、お互い常に敬う気持ちを忘れず、軽んじてはならないとしています。
それから、掛け布団で頭まで覆ってはならないとしています。眠くなる可能性があるためです。もし、疲労を感じたならば、身体を覆っている掛け布団を下ろして、身軽になって坐禅するように説いています。これは、ゆっくりと起きることと、眠気覚ましとを上手く調整するように説いているのです。
その上で、「洗面法」が示されます。詳細は『正法眼蔵』「洗面」巻にて示されるところですが、「日分行持」に組み込まれた洗面法を『弁道法』から見ていくことにしましょう。既に論じた通り、後夜の坐禅は、ハッキリと目覚めるための「準備運動」のような坐禅です。ですので、その坐禅中に、それぞれ大衆が洗面・歯磨きに行くのです。
洗面を行う場所は「後架」で、これは僧堂の後方に設置された場所です。この時、手巾を持ち左臂に掛けておきます。そして、単を降りてから、身も軽く後門に行き、両手で簾を挙げて出ます。単から降りた時、その下に置かれている「鞋」を履きます。しかし、この「鞋」は音が鳴ることもあるので、それは注意しなくてはなりません。そして、僧堂を出て、照堂(僧堂とその背後にある施設を繋ぐ場所)や槁亭を経過して後架に赴く際には、途中で人に逢っても、話をしてはならず、また、「もし人に逢わざるも、何ぞ敢えて吟咏せん」という指摘は面白いですね。逢わないからって歌を歌ってはならないとしているのです。恐らく、誰かがしたため、道元禅師は禁止されたのでしょう。
そして、威儀ですが、手を垂れて袖にしてはならないようです。また、水架(要するに洗面台)に到ったら、使用できる人数が限られているので、自分で使える場所が空くまで待つ必要があるのです。そして、もし、場所が空いたらサッとその場所に入らなくてはなりません。この辺は、一定の緊張感も持たねばならないところです。ここまでの作法を見て思うことは、他の修行僧に対して迷惑を掛けないように指示されていることが興味深いところです。ここは、「抜群の否定」ということと同義のような教えだと思っております。
洗面の時節、あるひは五更、あるひは昧旦、その時節なり。先師の、天童に住せしときは、三更の三点をその時節とせり。裙・褊衫を著し、あるいは直裰を著して、手巾をたづさへて洗面架におもむく。
『正法眼蔵』「洗面」巻
ところで、今日参究した箇所と同じ文脈を「洗面」巻から引用すると、まずこの箇所が該当します。五更か昧旦(朝だがまだ夜明け前)に行くべきだとします。道元禅師は如浄禅師が「三更の三点」を充てていたとしていますが、これは完全に真夜中(夜の正中)で、当時の天童山の睡眠時間の少なさに驚きます。また、『宝慶記』の記述を受けて、当時は「褊衫・裙子」だったと断言する人がいますが、道元禅師は「あるいは直裰」と、そちらの指示もしています。『弁道法』でも同じです。詳細は後日申し上げます。
雲堂の洗面処は後架なり。後架は照堂の西なり、その屋図つたはれり。庵内および単寮は、便宜のところにかまふ。住持人は、方丈にて洗面す。耆年老宿居処に、便宜に洗面架をおけり。住持人、もし雲堂に宿するときは、後架にして洗面すべし。
同上
昨日、住持人が僧堂で睡眠を取った場合、大衆と同じく洗面をするように述べましたが、その場合も洗面場所は後架ですので、大衆と同じ場所だったことが分かります。明日、「洗面」巻の簡単な解題を申し上げますが、道元禅師は数回にわたって同巻を提唱していたことが分かり、更に『弁道法』にも繰り入れられました。同巻にて、洗面を「仏祖の命脈なり」とまで道得される道元禅師ですが、よほど重視されていたことが分かります。
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