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何故、発心しないと万行の成果は無駄なのか?

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ちょっと前の話だが、【道元禅師の「三種の家訓」】という記事をアップしたところ、知り合いの方から、「どうして、発心(発菩提心)しないと、全ての修行(=万行)が無駄になるのですか?」というご質問を頂戴した。確かに、リンク先の文章を見ると、その辺の説明がちゃんとされていない印象である。よって、この記事を新たに立てた。

なお、そのことを示す原文は以下の通りである。

・発心正からざれば万行空しく施す。 『学道用心集
・若し道心無ければ、万行虚設なり。 『永平広録』巻8-小参20

なお、この文章の説明について、一番分かり易いのは、道元禅師の以下の御垂示であろう。

右、仏法修行、必ず先達の真訣を稟けて、私の用心を用いざる歟。況んや仏法は、有心を以ても得べからず、無心を以ても得べからず。但、操行の心と道と符合せざれば、身心未だ嘗て安寧ならず。身心、未だ安寧ならざれば、身心、安楽ならず。身心、安楽ならざれば、道を証するに荊棘生ず。所謂、操行と道と合せんには、如何が行履せん。心、取捨せず、心、名利無きなり。
    『学道用心集』

ここに、何故、「発心」が正しくなければ、一切の修行が無駄になるのか、という意義が示されている。それはつまり、発心が正しくないと、結局のところ、自分勝手な修行になってしまうためである。形が調っていても心が調わなければ意味は無く、心が調っても形が伴わなければ意味は無く、身心の調整を進めてくれる「先達の真訣」を学ばねばならないので或る。道元禅師の宗風は、やはり慕古そのものである。

また、身心が安寧とならなければ、身心が安楽とはならない。身心が安楽にならなければ、道にイバラが生じるように困難なものとなる。では、その時、我々の「身心」を安楽にまで到らせる「動機」とはどうあるべきか?道元禅師は、我々の普段の行いと、仏道とを合致させるには、「心」について「取捨せず」「名利無し」としている。

「取捨」とは、まさに分別心のことである。あれか?これか?と迷うことである。だが、この迷いとは、結果として我々を真実に到達させることは無い。仏道の成就には、不疑の境地に到る必要がある。一言で言えば、「この道で良かったのだ」と思うことである。不疑の言い換えが、正信である。

また、「名利」とは、自分自身の名誉や利益がもたらされるように願うことであり、行動することである。だが、このような利己的な発想は、仏道修行の大きな妨げとなる。「名利」とは、我々の発心をねじ曲げ、修行を妨げ、まさに万行を虚しくする最大の原因だといえる。

つまり、ここで発心が正しくなければ、全ての修行は意味が無いとはいうが、具体的には、正信を懐いて仏道を歩み、同時に、名利心を抛つことといえる。正しき発心は、ここにかかっているのである。菩提心を、本当の意味で発すことは難しいが、しかし、ちょっとしたことが、発心に繋がることもある。それこそ、仏像を前に手を合わせてみようかな?ちょっと坊さんの話を聞いてみようかな?と言うところからも、十分に起こり得る。だが、1度起きた道心を持続するのは困難である。

道心の継続には条件がある。道元禅師はそれを12巻本系統『正法眼蔵』「発菩提心」巻で論じておられるが、それこそが「自未得度先度他」である。我が成道よりも先に、衆生のそれを願うことである。つまり、先に挙げた正信と無名利が、ここに共に具わっている。だから、ここが後々にも強調された。だが、他の方法でも継続は可能である。されど、それを論じるのはまた一大事であるので、別の機会に考えてみたい。

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