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無住道曉『沙石集』の紹介(12q)

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前回の【(12p)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日は、「三 宗春房遁世の事」を見ていきます。この宗春坊というのは、慈悲深い上人として知られ、東大寺の僧でした。縁あって田畑を相続したところ、周囲にいた僧に妬まれ命を狙われたというので、自分は遁世するからと言い、その田畑の権利を手放したのです。他にも、自らの命や物に一切執着しなかった人々を紹介します。

 およそ、人の心が賢くなれば、天が与える徳がある。分不相応な利益は久しく続くことが無く、天に奪われてしまうという危惧がある。
 老子は、「衰えた物は新しくでき、窪んだ場所には物が満ちる」という。
 ここで老子がいう内容とは、天運に任せ切って栄花を願うことが無く、貧しくても心安らかにして高望みしなければ、常に衰えることが無いということを、「衰えた物は新しくでき」というのである。分不相応に栄え、道理の無い楽しみは、素晴らしいように見えるけれども、忽ちに滅び、消えてしまう。角が立つ物は欠けてしまうのと同じである。威勢をもって栄え、驕った人は、皆、上代も中古も、久しからずして消えてしまう。そうであれば、これまでの行いの結果に任せて、分不相応の福徳を望むべきではない。心を清らかにして、天が与えたことに従うべきなのだ。
 「窪んだ場所には物が満ちる」というのは、窪んだ場所には、塵や水が入り、必ず一杯になる。心に欲が無く、空しくしておけば、自然に福徳が来て、満ちるのである。
    拙僧ヘタレ訳

一つ註釈しておかねばならないのは、多分、ここでいう「福徳」というのは、世間一般に於ける幸せや栄花とは一線を画したものになるということでしょうか。もしかすると、世間一般の価値観で良いと思われているようなことには、遥かに及ばないことを、福徳と称している可能性もあります。とはいえ、それが重要なのでは無くて、何故それを、福徳だと感じられるかを考える必要があります。

なお、この一節の続きには、平家についての言及がありますので、この一節は、平家についての話も加味して考えねばなりません。先日、全放送回分が終了したNHK大河ドラマ『平清盛』をご覧になった方は・・・少ないかもしれませんが、要するにあの時代の、約100年後を生きているのが無住ですので、歴史的転換期をすぐ近くに見ながらの記述ですから、その言葉にも実感がこもっております。

言わんとするところは、要するに、力でもって一時的に栄えたとしても、それに驕ってしまえばすぐに衰退してしまうということです。では、衰退しないようにするには、どうすれば良いのか?それが、天運に任せること、心を清らかにすることです。自分からあくせくせず、しかし、徳を具えているような人には、必ず運がめぐってくると無住は説いているわけです。しかし、そこで驕らずに、淡々と毎日を生きていくこと、これも肝心です。

特に人は、自分が恵まれていないと思う人ほど、一時的な栄達に酔い、その上で驕ってしまいます。しかし、それは逆で無ければならないわけです。恵まれたと思う時こそ謙虚になり、驕ること無く、一時的な栄達には惑うこと無く生きねばなりません。その意味で、無住がこの一節を編むにあたって、『老子』(出典は、第二十二章)を引用したのは非常に印象的です。

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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