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門鶴本『永平広録』の話

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ここでいう「門鶴本『永平広録』」というのは、道元禅師の語録である『永平広録』(全10巻)の内、草案本系統最古の写本を指す名称である。ところが、もう一方で「祖山本『永平広録』」と呼ぶべきだという話もある。今日は、この辺の議論を見ていきたいと思い、記事にした。

なお、「門鶴本」と呼ばれるようになった経緯だが、それは同写本の第1巻・第2巻の奥書に、次のようにあるためである。

現住門鶴老衲之を置く者也。
    第1巻奥書

現住門鶴老衲之を置く。
    第2巻奥書

ここから、永平寺に門鶴禅師が「設置した」ということが分かる。ただ、合わせて以下のようにある。

時に慶長三(戊戌)年冬、吉祥山永平禅寺引籠の時、悪筆乍ら祚光之を書き畢る者也。
    第1巻奥書

時に慶長三〈戊戌〉年九夏、宗椿旃を書き畢る。
    第2巻奥書

ここから、第1巻が慶長3年(1598)冬、第2巻が慶長3年夏に書写されたことが分かる。よって、門鶴がこの頃、既に永平寺の住職であって、その指揮の下で書写された可能性があるとされるのである。

この筆者本は、永平寺二十世門鶴(?〜一六一五)禅師が、祚光(不詳・第一巻筆記者)・宗椿(不詳・第二巻筆記者)の両師をして慶長三年(一五九八)に書写せしめたものと、残りの八巻(三巻〜十巻は同一人の筆であるが前二師とは別の筆跡)を加えて全十巻とされているもので、現存する所謂の御草案本系の『永平広録』に関しては現今において最古とされるものである。
    大谷哲夫先生『訓註永平広録(上巻)』大蔵出版、「凡例」参照

拙僧は、駒澤大学の大学院在籍時代に、大谷先生から『永平広録』を習ったので、この上記の見解についても、その通りだと拝受していたのだが、その後、色々と学ぶ間に別の見解を懐くに至った。なお、大谷先生は、門鶴本を、「祖山本」と呼称すべきだと主張した先駆者であるが、その見解についてはこの記事で肯定されることだろう。上記見解で問題視されるとすれば、門鶴禅師が「書写せしめた」という所である。最初の奥書を見て分かる通り、門鶴禅師は「現住」と自称しているため、永平寺の住職であったということになる。では、この慶長三年にこの門鶴禅師の奥書が書かれたか?というと、実はここが謎である。

理由としては、門鶴禅師の前任である、祚玖禅師の存在がある。祚玖禅師は1530年生まれ。永禄3年(1560)にわずか31歳で永平寺の19世となった。その後、幾つかの寺院の開山となったが、慶長11年(1606)には、『永平室中伝授総目録』(全1巻)を書写して、祚天に付授している。後、法嗣である門鶴禅師に住持の席を渡し、慶長15年1月22日(または、同月24日)に遷化した。世寿81歳であった。

つまり、『永平広録』書写を行った「慶長三年」は、まだ祚玖禅師が住持であった可能性が残るのである。しかも、第1巻の書写を行った「祚光」は、その僧名が祚玖禅師と一字重なる。よって、祚玖禅師の随身であったと考えるのが自然であろう。そう考えると、門鶴禅師は、書写を行わせたのではなくて、その書写された10巻分の『永平広録』を永平寺(祖山)に安置したというべきであって、実際の奥書も、それを肯定する。

そこで、『永平寺史(上)』を見てみると、この辺がスッキリする。それは、慶長2年(1597)に門鶴は群馬県鳳仙寺から永平寺に入り、翌3年の冬に住職になったとしている(526〜527頁)。よって、書写について、19世・祚玖禅師の随身とおぼしき僧の書写になることは問題無い。ただ、この事は、書写を行わせた当の本人について、祚玖禅師も関わっていた可能性が高いことからすれば、「門鶴本」というのは問題がある。だからこそ、「祖山本」と呼ばれるべきだという話になるのである。簡単な話で恐縮であるが、以上で「門鶴本」の呼称問題は、拙僧の中では決着としておきたい。なお、拙僧自身は論文では常に名称「祖山本」を用いている。

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