まぁ、何か、葬式仏教批判の人たちは、何故か道元禅師を亡者供養批判者だと思っているらしく、自分達の同志か先駆者のように思っているようだが、正直、何を根拠にそういっているのか、拙僧のような者には意味不明。例えば、比較的後年(永平寺に入った後のものという意味で)の著作に、次のような一文がある。
また明教禅師曰く、「大覚禅師懐?和尚、育王山広利禅寺に住す。因みに二僧、施利を争って已まず。主事、能く断ずること莫し。
大覚禅師呼び至らしめ、これを責めて曰く、『昔、包公、開封に判たり。
民自ら陳する有り、『白金百両を以て我に寄せる者、亡ぜり。今、其の家に還すに、其の子受けず。望むらくは、公よ、其の子を召してこれを還せ』と。
公、嘆異して、即ち其の子を召してこれを語る。
其の子、辞して曰く、『先父の存りし日、白金を私に他室に寄せること無し』と。
二人、固く譲ること久しし。
公、已むを得ず、責めて在城の寺観に附して冥福を修し、以て亡者に薦せしむ。
予、其の事を目覩す。且く塵労中の人すら尚お、能く財を疎んじ義を慕うこと此の如し。なんじ仏弟子と為って、廉恥を識らざること是の若きか』と。
遂に叢林の法に依ってこれを擯す」〈『西湖広記』。今は『禅門宝訓』に載る〉。
『永平寺知事清規』「監院」項
ここでの本題は「出家者に於ける信施の取り扱い」ということなのだが、それはまた別の機会に論じるとして、ここでは、この一節にさりげなく入っている亡者供養の様子について見ていきたい。道元禅師に於いては、『正法眼蔵随聞記』中に、『梵網経』の一節について提唱されて、在家は「孝」の概念に於ける先祖供養(亡者供養)があるが、出家はそれをする必要は無いと仰った。ただし、晩年は両親に対して追福を祈る上堂を修行しておられるので、或る理由によって、道元禅師の死者供養観は変わっている(多分、『観無量寿経』「三福」に依ってであろう)と思われる。
そこで、この一件である。これは、中国で伝えられていた故事を道元禅師が引用されたものである。明教禅師というのは、仏日契嵩(1007〜1072)のことで、それが伝えていることには、という話であり、中に出ている大覚禅師というのは、懐?和尚(1009〜1090)という人である。そこで、その大覚禅師が阿育王山広利寺の住職をしていた時、二人の僧侶が檀那が寄せた布施を巡って争ったという。実際、布施争いというのは、時代・場所を問わずに起きるものであり、僧侶の世界が決して理想的な人格者ばかりが集まっていないことを明らかにしている。なお、釈尊の時代だって、様々な争いがあったことは言うまでも無い。
さて、問題はこの争いが起きた際の解決法である。大覚禅師が示したのは、或る一件で、それは、包拯(999年〜1062年)という人についての説話であった。この包公は、中国・北宋の政治家であり、非常に有能な官吏だったようだが、中国宋代には、かなりの伝説が作られた人であり、特に、「孝」に関する説話に登場することが多いという。民衆が自ずと崇拝してしまうような人物像で描かれている。
この包公の説話が、中国の禅宗叢林にも入っていたことが、道元禅師のこの記述から知られる。
なお、包公が開封の裁判官であった時、或る民が自ら述べるには、「自分に白金(銀のことだと思われる)を百両預けていた者が亡くなった。遺族に返そうとしたが、遺子が受けようとしないので、包公よ、この遺子を召し出して返してくださらないか」という願いであった。
早速、包公が遺子を召し出してこの一件を話すと、その子は、「父が世にあった頃、白金を他人に預けるようなことはしませんでした」といい、返却されること固辞したという。そして、両者ともに、「自分の金では無い」といい、互いにその見解を譲ろうとしなかった。
そこで、包公は、「であれば、城にある寺に寄付をして、その百両を預けた者の冥福を祈る供養をしなさい」といい、それは実行されたようである。
大覚禅師は、自らこの様子を見ていたようで、これを話題としながら、「布施の取り分」で争う僧侶2人に対し、俗人ですらなお、財を疎んじるのに、仏弟子たる者何たる所行か?ということで、追放したのであった。
ここから知られることは、無論、引用した意図は別にあったとしても、道元禅師が普通に、仏教に於ける追福(亡者に対して、生者が善行を積み回向すること)を認めていたことである。実際、『正法眼蔵随聞記』以来、在家信者が、自ら功徳を積むために先祖を供養することは肯定しているのだが、一部の、反葬式仏教系宗教学者の偏向した説により、道元禅師は葬儀を否定したかのような印象を懐いている人も多いと思う。だが、それは誤りである。永平寺で坐禅ばかりしていたというのもウソである。読経もしておられたし、修行僧のための説法もしておられたし、在家信者のための布薩という修行もしておられた。
葬式を始めとする死者供養を宗教的に劣った事象と見なし、ただ哲学的、精神修養的な要素のみを良き宗教として誇張するのは、近代仏教学が、江戸時代後期から続く国学や、明治期以降日本に入ってきたプロテスタントの影響から陥ったドグマに過ぎない。だが、もはや「現代」という時代に入って60年以上も過ぎているのに、その誤ったドグマばかりを信じている人が多いというのは、何とも情けない話である。どうか、こういう記事を通して、正しく儀礼や葬儀の重要性に気付いて欲しいと願うばかりである。
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また明教禅師曰く、「大覚禅師懐?和尚、育王山広利禅寺に住す。因みに二僧、施利を争って已まず。主事、能く断ずること莫し。
大覚禅師呼び至らしめ、これを責めて曰く、『昔、包公、開封に判たり。
民自ら陳する有り、『白金百両を以て我に寄せる者、亡ぜり。今、其の家に還すに、其の子受けず。望むらくは、公よ、其の子を召してこれを還せ』と。
公、嘆異して、即ち其の子を召してこれを語る。
其の子、辞して曰く、『先父の存りし日、白金を私に他室に寄せること無し』と。
二人、固く譲ること久しし。
公、已むを得ず、責めて在城の寺観に附して冥福を修し、以て亡者に薦せしむ。
予、其の事を目覩す。且く塵労中の人すら尚お、能く財を疎んじ義を慕うこと此の如し。なんじ仏弟子と為って、廉恥を識らざること是の若きか』と。
遂に叢林の法に依ってこれを擯す」〈『西湖広記』。今は『禅門宝訓』に載る〉。
『永平寺知事清規』「監院」項
ここでの本題は「出家者に於ける信施の取り扱い」ということなのだが、それはまた別の機会に論じるとして、ここでは、この一節にさりげなく入っている亡者供養の様子について見ていきたい。道元禅師に於いては、『正法眼蔵随聞記』中に、『梵網経』の一節について提唱されて、在家は「孝」の概念に於ける先祖供養(亡者供養)があるが、出家はそれをする必要は無いと仰った。ただし、晩年は両親に対して追福を祈る上堂を修行しておられるので、或る理由によって、道元禅師の死者供養観は変わっている(多分、『観無量寿経』「三福」に依ってであろう)と思われる。
そこで、この一件である。これは、中国で伝えられていた故事を道元禅師が引用されたものである。明教禅師というのは、仏日契嵩(1007〜1072)のことで、それが伝えていることには、という話であり、中に出ている大覚禅師というのは、懐?和尚(1009〜1090)という人である。そこで、その大覚禅師が阿育王山広利寺の住職をしていた時、二人の僧侶が檀那が寄せた布施を巡って争ったという。実際、布施争いというのは、時代・場所を問わずに起きるものであり、僧侶の世界が決して理想的な人格者ばかりが集まっていないことを明らかにしている。なお、釈尊の時代だって、様々な争いがあったことは言うまでも無い。
さて、問題はこの争いが起きた際の解決法である。大覚禅師が示したのは、或る一件で、それは、包拯(999年〜1062年)という人についての説話であった。この包公は、中国・北宋の政治家であり、非常に有能な官吏だったようだが、中国宋代には、かなりの伝説が作られた人であり、特に、「孝」に関する説話に登場することが多いという。民衆が自ずと崇拝してしまうような人物像で描かれている。
この包公の説話が、中国の禅宗叢林にも入っていたことが、道元禅師のこの記述から知られる。
なお、包公が開封の裁判官であった時、或る民が自ら述べるには、「自分に白金(銀のことだと思われる)を百両預けていた者が亡くなった。遺族に返そうとしたが、遺子が受けようとしないので、包公よ、この遺子を召し出して返してくださらないか」という願いであった。
早速、包公が遺子を召し出してこの一件を話すと、その子は、「父が世にあった頃、白金を他人に預けるようなことはしませんでした」といい、返却されること固辞したという。そして、両者ともに、「自分の金では無い」といい、互いにその見解を譲ろうとしなかった。
そこで、包公は、「であれば、城にある寺に寄付をして、その百両を預けた者の冥福を祈る供養をしなさい」といい、それは実行されたようである。
大覚禅師は、自らこの様子を見ていたようで、これを話題としながら、「布施の取り分」で争う僧侶2人に対し、俗人ですらなお、財を疎んじるのに、仏弟子たる者何たる所行か?ということで、追放したのであった。
ここから知られることは、無論、引用した意図は別にあったとしても、道元禅師が普通に、仏教に於ける追福(亡者に対して、生者が善行を積み回向すること)を認めていたことである。実際、『正法眼蔵随聞記』以来、在家信者が、自ら功徳を積むために先祖を供養することは肯定しているのだが、一部の、反葬式仏教系宗教学者の偏向した説により、道元禅師は葬儀を否定したかのような印象を懐いている人も多いと思う。だが、それは誤りである。永平寺で坐禅ばかりしていたというのもウソである。読経もしておられたし、修行僧のための説法もしておられたし、在家信者のための布薩という修行もしておられた。
葬式を始めとする死者供養を宗教的に劣った事象と見なし、ただ哲学的、精神修養的な要素のみを良き宗教として誇張するのは、近代仏教学が、江戸時代後期から続く国学や、明治期以降日本に入ってきたプロテスタントの影響から陥ったドグマに過ぎない。だが、もはや「現代」という時代に入って60年以上も過ぎているのに、その誤ったドグマばかりを信じている人が多いというのは、何とも情けない話である。どうか、こういう記事を通して、正しく儀礼や葬儀の重要性に気付いて欲しいと願うばかりである。
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