「中興」という言葉がある。寺院史・教団史などを見ていくと、比較的容易に見ることが出来る語句であろう。寺院に関連させれば、詳しくは「中興開山」といい、要するに、一度寺運が衰退した状況であったのを、或る住職が入ることによって、再度盛り返したため、「中興」と呼ぶ。
この語句についてはおそらく、最初に用いられたのは、永平寺五世・義雲禅師であると思われる。理由としては、そもそも一度衰退した状況を、再度興す必要がある寺院は、最初であればあるほど少なく、それが適用されたのが、後の大本山である永平寺だということ。そして、義雲禅師に対しては、既にその存命中から、「中興」と呼ばれた形跡があるためだ。
義雲禅師については、その徒であった宗可和尚が入宋したという故事がある。概略を【日本曹洞宗史略年表】から抜粋しておきたい。
1324年(元亨4) 宗可(義雲禅師の侍者)が入元。同年中に、霊隠寺の独孤淳朋より義雲禅師像への賛を得る。他にも、年月不明ながら、浄慈寺の霊石如芝(83歳当時)から義雲禅師像への賛を得、天童山南谷庵(如浄禅師の廟所)の道元禅師位牌を修築す。
1326年(正中3) 義雲禅師が永平寺を復興へ。
1327年(嘉暦2) 義雲禅師が永平寺梵鐘を鋳造す。
同年 7月、宗可が明極楚俊(1329年来日)より法語一篇をもらい、この年帰国。
このようにある。そこで、経緯については若干、『建撕記』が伝えるところでもあるので、それも見てみたい。
正和三年十二月永平寺ゑ御入院の後、吾が真を写して宗可侍者にもたせて渡唐させらる。
并に永平寺再興之由来を書して渡し給ゑば、大唐浄慈寺之長老、霊隠寺の長老両尊して中興を永平第一世と許し、其来暦を真之賛にして日本ゑ宗可侍者を帰し給也。従其して永平中興和尚とは申す也。其真像、宝慶寺御在す也。
で、その賛には確かに、「其の俤績を紀ぐ豊功、是を中興永平第一世と為す」とあって、賛には「中興」とあり、しかも、「永平第一世」としているので、文字通りの「中興開山」扱いで有ったことが分かる。つまり、その後は「五世」とはされるけれども、実質的にはここで1回、世代が切り替わってしまうほどの状況であったといえる。
そこで、拙僧つらつら鑑みるに、昨今、各地の寺院では、歴代の住職に「中興」「再中興」「重興」などの尊号を用いる場合が多く見られることについて、安易に賛意を表せなくなってしまった。理由はやっぱり、寺運の衰退という事実を認めなくてはならず、それはそれ以前の歴代の住職の努力を無にする可能性があるためだ。無論、寺院を再興する状況には様々なものがある。例えば、東日本大震災では、特に三陸地方の沿岸部に津波が押し寄せ、大きな被害を受けた。他の災害等でも、元々の寺域に大きな被害を受け、移転を余儀なくされる場合がある。
そういう場合には、「中興」も良いだろう。完全なリセットとなるためだ。だが、場合によっては、寺院の建物を1つ建て直したとか、そういう程度で尊号を付す場合もある。それはどうなのだろうか?正直、強い違和感を覚える。拙寺の場合には、本堂を除くほぼ全ての建物を、先代住職が建て直したこともあり、伽藍や寺域の環境は一新され、檀信徒の帰崇も新たとなった。そういう場合には、尊号を付することに、躊躇してはならない。やはり、新規開山と同じくらいの労力がかかっているためだ。
しかし、それでも、歴代の住職の努力や苦労を無にするわけにはいかない。その辺のバランスが考慮されねばならないといえる。その意味では、乱発などの状況は、厳に控えるべきだともいえる。最初の開山や、歴代の住職に配慮しつつ、それでもどうしても、寺院の状況が一新されたと認められた場合にのみ、「中興」などの号が用いられるべきなのである。そして、その時代を機に、また「一からやり直し」くらいの覚悟も必要だといえる。それくらい重い号なのだ。
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この語句についてはおそらく、最初に用いられたのは、永平寺五世・義雲禅師であると思われる。理由としては、そもそも一度衰退した状況を、再度興す必要がある寺院は、最初であればあるほど少なく、それが適用されたのが、後の大本山である永平寺だということ。そして、義雲禅師に対しては、既にその存命中から、「中興」と呼ばれた形跡があるためだ。
義雲禅師については、その徒であった宗可和尚が入宋したという故事がある。概略を【日本曹洞宗史略年表】から抜粋しておきたい。
1324年(元亨4) 宗可(義雲禅師の侍者)が入元。同年中に、霊隠寺の独孤淳朋より義雲禅師像への賛を得る。他にも、年月不明ながら、浄慈寺の霊石如芝(83歳当時)から義雲禅師像への賛を得、天童山南谷庵(如浄禅師の廟所)の道元禅師位牌を修築す。
1326年(正中3) 義雲禅師が永平寺を復興へ。
1327年(嘉暦2) 義雲禅師が永平寺梵鐘を鋳造す。
同年 7月、宗可が明極楚俊(1329年来日)より法語一篇をもらい、この年帰国。
このようにある。そこで、経緯については若干、『建撕記』が伝えるところでもあるので、それも見てみたい。
正和三年十二月永平寺ゑ御入院の後、吾が真を写して宗可侍者にもたせて渡唐させらる。
并に永平寺再興之由来を書して渡し給ゑば、大唐浄慈寺之長老、霊隠寺の長老両尊して中興を永平第一世と許し、其来暦を真之賛にして日本ゑ宗可侍者を帰し給也。従其して永平中興和尚とは申す也。其真像、宝慶寺御在す也。
で、その賛には確かに、「其の俤績を紀ぐ豊功、是を中興永平第一世と為す」とあって、賛には「中興」とあり、しかも、「永平第一世」としているので、文字通りの「中興開山」扱いで有ったことが分かる。つまり、その後は「五世」とはされるけれども、実質的にはここで1回、世代が切り替わってしまうほどの状況であったといえる。
そこで、拙僧つらつら鑑みるに、昨今、各地の寺院では、歴代の住職に「中興」「再中興」「重興」などの尊号を用いる場合が多く見られることについて、安易に賛意を表せなくなってしまった。理由はやっぱり、寺運の衰退という事実を認めなくてはならず、それはそれ以前の歴代の住職の努力を無にする可能性があるためだ。無論、寺院を再興する状況には様々なものがある。例えば、東日本大震災では、特に三陸地方の沿岸部に津波が押し寄せ、大きな被害を受けた。他の災害等でも、元々の寺域に大きな被害を受け、移転を余儀なくされる場合がある。
そういう場合には、「中興」も良いだろう。完全なリセットとなるためだ。だが、場合によっては、寺院の建物を1つ建て直したとか、そういう程度で尊号を付す場合もある。それはどうなのだろうか?正直、強い違和感を覚える。拙寺の場合には、本堂を除くほぼ全ての建物を、先代住職が建て直したこともあり、伽藍や寺域の環境は一新され、檀信徒の帰崇も新たとなった。そういう場合には、尊号を付することに、躊躇してはならない。やはり、新規開山と同じくらいの労力がかかっているためだ。
しかし、それでも、歴代の住職の努力や苦労を無にするわけにはいかない。その辺のバランスが考慮されねばならないといえる。その意味では、乱発などの状況は、厳に控えるべきだともいえる。最初の開山や、歴代の住職に配慮しつつ、それでもどうしても、寺院の状況が一新されたと認められた場合にのみ、「中興」などの号が用いられるべきなのである。そして、その時代を機に、また「一からやり直し」くらいの覚悟も必要だといえる。それくらい重い号なのだ。
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