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坐禅と布教について

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大本山永平寺第74世・佐藤泰舜禅師には、その御垂示やエッセイなどをまとめた『禅の修証義』(誠心書房、1975年)という書籍があり、昭和50年当時の曹洞宗に於ける『修証義』解釈を知る資料としてだけでは無く、布教教化の基礎理念や研究成果なども知ることが出来る貴重な文献となっている。その中に、「布教と坐禅」という1章があって、なかなか容易には結び付かないと思ってしまう、布教と坐禅との関係を論じておられる。

この問題は、繰り返しその解決への方途を探究すべきであるので、安易に解答らしきものを出すつもりもないし、そもそも出せる状況にない。よって、先達の良き導きに身を任せたいと思う次第である。

布教は坐禅と別個の問題だと決めてしまって、それ以上何も考えないで良いであろうか。わが宗門は坐禅を以て立ち、坐禅を宗旨としてできておる。だから、その修行が坐禅を中心とすると共に、その教化が坐禅を根本の依り処となし、その布教が坐禅を窮極の理想となし、その伝道が坐禅を相伝するのでなくては、宗門の布教々化の意義を完うしたとはいえないであろう。布教と坐禅とが、形態の上では全然別な営みであっても、その内容においては、全く切り離すことのできないもので、布教は坐禅から流れ出たものでなくてはならず、坐禅は布教の締めくくりとしてその帰結とならなければなるまい。このことは常に布教の考え方の基調となっておるべきである。と同時に布教の仕方の中に取り入れられていなくてはならぬ。これは実に重要な問題であろう。
    前掲同著、374頁

まずは、坐禅と布教との相関関係確立を説いておられる。これは、我々宗侶の修行プロセスを考えるように促しておられると思われる。我々は、何の修行もせずに、いきなり説法などをすることは、まず無いと思って良い。必ず先に修行(いわゆる僧堂安居など)があって、その上で自分の僧籍がある寺院に帰り、そこで住職の手伝いをしながら、或いは自ら住職として説法を行う。よって、そこを簡潔に述べれば、「坐禅を宗旨とする」という大原則にしたがって、我々の修行は坐禅が中心であり、その結果としての教化であれば、坐禅を根本の依り処にするといえる。

ところで、佐藤禅師の御指摘である布教の窮極の理想が坐禅で、伝導も坐禅を相続するという御指摘は、容易に至り得る境涯とは言い難い。この自覚があって、始めて坐禅と布教との相関関係は確立できるといえる。これは、拙僧も申し上げてきたことではあるが、坐禅を布教教化の根本にするということは、素直にお話しできる。或いは、諸々の活動も同様で、坐禅の実修実証が具わる人は、その坐禅力に催されて、様々な現場に真っ先に赴く。よって、ここまでは良い。だが、我々の布教にしろ、諸々の社会活動にしろ、その行き先が「坐禅」というのは、中々難しい。

要するにここには、中国浄土教の大成者である善導和尚が『往生礼讃偈』で示された「自信教人信」をもじって、「自行教人行」が必要だといえるが、それでも、窮極というまでに至るには、余程の教化を要することだろうし、余程の実修を必要とするだろう。よって、この『禅の修証義』でも、後半では坐禅会の様子について述べられている。その場でも、坐禅と講話との関係について論じておられるが、詳細はまた別の機会にしたい。

さて、拙僧の問題意識に引き当てて、佐藤禅師の御垂示を思う時、拙僧自身、如何にして坐禅から、話が生み出されてくるのか?という法話の生成プロセスに関心がある。同時に、坐禅人が社会活動を行う場合、催されて行う場合もあるわけだが、この催されること、についても関心がある。前者については、それこそ道元禅師『普勧坐禅儀』に、「宝蔵自ら開け、受用如意ならん」とあるから、坐禅実修による宝蔵の開けが、我々の法話に繋がることは理解できる。ここで媒介になっているのは、「仏知見」である。或いは、瑩山禅師『伝光録』「第二章・阿難尊者」の項目でも、坐禅三昧から全ての経蔵が生み出される様子が描かれていることも参照すべきである。

そして、後者の催しについては、菩薩の修行階梯、いわゆる「五十二位」とか「四十位」とかいわれる状況に鑑み、菩薩は修行の進展で、様々な能力(心的アビリティー)を身に着けることと関連させてみたいとは思っている・・・のだが、これが難しい。実際、佐藤禅師の御垂示も、坐禅はそれとしてキーワードとして用いられ、その内容の吟味を通して、布教に繋げているわけではない。これは、宗門で坐禅がそう扱われてきていることを考えねばならない。坐禅については、「無所得・無所悟」ばかりが喧伝され、その内容を問うことが疎かになっている。結果、我々は、坐禅の効能について、語れなくなっているが、果たしてこれは良いのだろうか?両祖の著作を拝読するに、坐禅の効能については十分に説かれている。「三昧王三昧」巻などは、「福徳無量」とまで説かれる。よって、我々は大乗仏教の修行階梯と、我々の坐禅修行とを重ね合わせて参学する必要があると思われる。

その意味で、否定されなくてはならないのは、頓悟絶対主義である。頓悟絶対主義は、六祖慧能に始まる伝統が、強化された状態で展開しているもので、頓悟さえすれば良いという、或る種の「専修思想」である。だが、この絶対化は、我々の行動や言動をかなりの部分で縛っている。まさに、自縄自縛である。よって、この頓悟を相対化し、正しき機能と射程を定め、修行の階梯に組み込んでしまうべきである。その意識改革があれば、この坐禅と布教との関係、他にも、坐禅と供養との関係、坐禅と葬儀との関係、それこそ、坐禅と『修証義』との関係も自然と会得出来るはずなのだ。

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