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某宗派の信徒からいただいたお手紙

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何か、拙寺に妙な封書が送られてきた。差出人に心当たりもないし、何故西日本からわざわざ?という感じである。で、それにはまぁ、おたくら禅宗は、亡国の徒だといわんばかりの内容であった。そして、良く分からないけど、一枚のコピーが入っていたので、それを読みながら、微妙なツッコミをしてみたい。

まず、我々禅宗などは、とにかくダメらしい。

 浄土宗、真言宗、禅宗などの各宗派は、仏教を自称しながらも、こうした釈尊の金言に背き、爾前の経々を絶対の依り処とするが故に、邪宗教を呼ばざるをえないのであります。
 実際、これらの邪宗を世に弘めた各宗派の宗祖達は、すべて悲惨な最期を遂げており、仏の金言に背く罪の恐ろしさを実証しているのです。

こういう文章があった・・・いやまぁ、ウチらは日蓮聖人からは、「教外別伝」を批判されていたりするのだが、一方で、『楞伽経』とか『金剛経』なんかを使っていたこともあるので、その辺が怒られるきっかけになったのかな?とか思う。でも、そもそも、『法華経』が一番とかいう発想だって、それをそう信じた人達の話だからなぁ。あ、でも、ウチの宗派の高祖・道元禅師も、「法華経は、諸仏如来一大事の因縁なり。大師釈尊所説の諸経のなかには、法華経これ大王なり、大師なり。余経・余法は、みなこれ法華経の臣民なり、眷属なり」(『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻)とまで仰っていたりするのだが・・・

それから、「宗祖の悲惨な最期」だが、正直、法然上人なんかは、確かに厳しかったかもしれない。道元禅師も、病を得てから、信者の波多野義重にいわれて京都に行ったものの、最期は京都にいる在家信者の家で治療の甲斐無く御遷化ということになっているから、もしかすると彼らにいわせると、「悲惨」かも知れない・・・あれ?でも、日蓮聖人だって、病となったら、地頭で信者であった波木井実長の勧めでその領地の常陸国へ湯治に向かうために甲斐の身延山を下りて、武蔵国にあった信者の池上宗仲の邸宅に着き、そこで亡くなったとされているはず。

・・・道元禅師とほとんど一緒じゃん(汗)いや、こんなに似てて良いの?

後、その意味では、高野山真言宗の宗祖である空海上人などは、本当に良い御入滅をされたように思う。まぁ、拙僧基準だから、こういう人達にいわせると、空海でも「悲惨」になるかもしれないけど・・・

で、いただいたお手紙によれば、『法華経』だけでもダメだそうだ。

釈尊は、この白法隠没の悪世末法の時こそ、釈迦仏法に替わり、法華経の文の底に秘められた前代未聞の大仏法が出現すべき時である、と予証したのです。そして、その新時代の大仏法を所持なさる御本仏は、太陽が一切の暗闇を照らしていくごとく、この濁悪の世の一切の不幸の原因を除かれること、その際、幾多の迫害(法難)を受けられ、流罪・死罪等にまで及ぶこと等々、細かく法華経の中に予証されているのです。

・・・良く分からないんだけど、新時代には「前代未聞の大仏法」っていうのがあるわけね。ところが、これは、どこにも載っていないということになるのかな?だって、「法華経の文の底に秘められた」っていうわけだから文章見ても分からないってことだ。しかも、「大仏法を所持なさる御本仏」っていう存在がいるけど、これは今度、『法華経』の中に予証されているってある。「予証」って言葉の意味が良く分からないけど、とりあえず掻い摘んで理解すれば、『法華経』の文の底には秘められた教えがあって、それは「御本仏」という存在が明らかにすると。でも、「御本仏」がどういう存在かは、『法華経』が示すとあるけど、おかしくないか?『法華経』読んでも分からないはずの「秘められた大仏法」のはずなのに、それを明かす存在は、『法華経』から分かるの???

全く理解できん。で、どうも、こういう帰結にしたいらしい。

末法時代においては、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、まず大聖人の教えを根本の正しい仏法を定めなくてはなりません。

ふ〜ん・・・あぁ、確かにこの人、迫害を受けたってことになってるから、「御本仏」の資格があるわけね。何故そうなるかは、拙僧の頭では理解できないけど。で、しかも、この系譜は、「血脈相承」という方法で、日蓮正宗の大石寺の法主にだけ伝わっている、という話らしい。

でもこれって、「御本仏」とか、「法華経の文の底」とか、自分たちだけで決めた価値が優先されているから、信じればその通りかもしれないけど、信じなければただのウソになってしまうじゃない。それだったら、もうちょっと、「教外別伝」とか唱えて、自分に具わる仏心・仏性を見性するべきだ、とかいう教えの方が良いような気がするんだけど。どうも、『法華経』に留まると、他の法華宗教団との差別化が出来ないから、無理矢理新しい価値を作って、それで何とか勝負したいという思いが見え見え。しかしこの方法、かつては真言密教が流行したとき、或いは禅宗が流行したときと、基本的な方法が一緒。外にもう一箇価値を作って、既成の価値を批判するっていうだけなのだから。

そう思っちゃうと、何の意味もないし、しかもいただいたお手紙、かなりの脅迫めいた内容で全く感心できない。これじゃ、カルトになっちゃうよ・・・

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