我々がもし、『見聞宝永記』を読む意味を考えるとすれば、それは、江戸時代の或る僧堂で行われていた、活き活きとした問答にあるといえましょう。活き活きとした問答を見ることで、我々自身もともに学ぶことが可能です。
愚中は最初、仙台の大年寺の鳳山に参じ、(鳳山が)註記した『信心銘』を得て看読していた。
鳳山がいうには、「これは、山僧が勝手に推測して談じた内容では無い。潮音(道海)先師のお示しに由ったのだ」と。
たまたま、愚中が来て、これを余に語った。
或る時、お師匠さまは晩参に『信心銘』を講義した。余は、独参の時に、「極小は大に同じし」「極大は小に同じし」の下に、鳳山が註していうには、「極小は大に同じし、空は即ち是れ色」「極大は小に同じし、色は即ち是れ空」と述べたことを採り上げ、お師匠さまに質した。
お師匠さまがいわれるには、「大を談ずれば、色・空ともに大であり、小を談ずれば、色・空ともに小である。鳳山は空をもって小とし、色をもって大としている。未だ、常識的な見解を免れていない。もし、能く高く眼を「極」の一字に着ける時は、大・小は自ずから脱落するのみだ」。
余は、この語をもって愚中に語った。愚中は大いに喜び、これ以降は轍を改めて、お師匠さまを慕うようになった。
ついに、臘月に至って、大年寺を出奔して、泰心院に来た。余は、これをお師匠さまに申し上げた。
お師匠さまがいわれるには、「(冬安居の)禁足中に、新たな掛搭は許すことは出来ない。春を待って再び来るべきだ」。
その時、雲洞院の寂光師淑が来て、歳末のお祝いを述べに来た。師は、寂光公に告げて、愚中を伴って連れて行かせた。愚中は、その年を雲洞院で迎えて、正月十六日に来て、泰心院に掛搭した。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
損翁禅師は、同じ仙台にあった黄檗宗の大寺院・大年寺との関わりが何回か見えるのですけれども、大概は、対立的状況であることが多いようです。そして、今回もその通りだったようです。詳細は良く分からないのですが、どうも、損翁禅師(と、法嗣の面山師)は、当時の大年寺住職であった鳳山元瑞が嫌いというか、どうも、合わなかったようで、この『見聞宝永記』では数回にわたり対立しています。
それで、今回は『信心銘』の註釈だそうです。残念ながら、鳳山註『信心銘』は未見ですので、この引用文から知るしか無いのですが、確かに損翁禅師の批評の通り、もし、このような註記をしていたとすると、かなり残念な印象です。そして、この損翁禅師の批評を聞いた、当時大年寺で修行していた愚中は、宗派を改めて損翁禅師の門下となりました。
この僧は、詰外愚中(1679〜1737)であり、損翁禅師門下に入った因縁は以上に見た通りですが、得法して以来、越前三方郡の龍沢寺や、因幡の景福寺に入るなどしています。なお、享保4年(1719)には總持寺五院の如意庵に輪住しましたが、『如意庵輪住帳』から採録した『總持寺誌』(1965年)によれば、龍沢寺から輪住したようです。この三方の龍沢寺、伽藍法は実峰派だったんですね(参考までに景福寺は通幻派)。なお、愚中ですが、損翁禅師の下で修行している時は、今回紹介した因縁があったためか、面山師とともに活動することが多かったようで、しかも、損翁禅師の末期の遺戒の時には、面山師と愚中がともに、枕元に呼ばれています。愚中には著作として『六祖壇経弁疑』があり、更に『景福詰外和尚実録』という語録も遺されているようです。
ところで、『信心銘』の解釈として見てみると、例えば曹洞宗には、太祖・瑩山紹瑾禅師に『信心銘拈提』がありますが、それを確認してみます。瑩山禅師は、「極小は大に同じ、境界を妄絶す」という一文については、「小にして内無し、何の境界をか存せん」と註釈し、境界の大小を問う状況に無いとしています。また、同じく「極大は小に同じく、辺表を見ず」についても、「大にして外無く、終に辺域無し」とし、こちらも辺域の大小を問う状況に無いとしています。ですから、曹洞宗的には、既に大と小とを、色と空とに当て嵌めるというような窮屈な解釈はしないようです。
さて、この記事、後はこの解釈を学んでいきたいと思うのですが、損翁禅師が注目しているのは「極」についてです。「極」とは、窮極の極ですが、実際仏法として窮極ということは、何かに固着することは無く、その逆で無常そのものを直観することをいいます。だからこそ、大小が脱落するわけです。大か小か?といったような凡見は直ちに抛却されてしまって良いといえます。そのことを、具に学ばねばなりません。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。
愚中は最初、仙台の大年寺の鳳山に参じ、(鳳山が)註記した『信心銘』を得て看読していた。
鳳山がいうには、「これは、山僧が勝手に推測して談じた内容では無い。潮音(道海)先師のお示しに由ったのだ」と。
たまたま、愚中が来て、これを余に語った。
或る時、お師匠さまは晩参に『信心銘』を講義した。余は、独参の時に、「極小は大に同じし」「極大は小に同じし」の下に、鳳山が註していうには、「極小は大に同じし、空は即ち是れ色」「極大は小に同じし、色は即ち是れ空」と述べたことを採り上げ、お師匠さまに質した。
お師匠さまがいわれるには、「大を談ずれば、色・空ともに大であり、小を談ずれば、色・空ともに小である。鳳山は空をもって小とし、色をもって大としている。未だ、常識的な見解を免れていない。もし、能く高く眼を「極」の一字に着ける時は、大・小は自ずから脱落するのみだ」。
余は、この語をもって愚中に語った。愚中は大いに喜び、これ以降は轍を改めて、お師匠さまを慕うようになった。
ついに、臘月に至って、大年寺を出奔して、泰心院に来た。余は、これをお師匠さまに申し上げた。
お師匠さまがいわれるには、「(冬安居の)禁足中に、新たな掛搭は許すことは出来ない。春を待って再び来るべきだ」。
その時、雲洞院の寂光師淑が来て、歳末のお祝いを述べに来た。師は、寂光公に告げて、愚中を伴って連れて行かせた。愚中は、その年を雲洞院で迎えて、正月十六日に来て、泰心院に掛搭した。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
損翁禅師は、同じ仙台にあった黄檗宗の大寺院・大年寺との関わりが何回か見えるのですけれども、大概は、対立的状況であることが多いようです。そして、今回もその通りだったようです。詳細は良く分からないのですが、どうも、損翁禅師(と、法嗣の面山師)は、当時の大年寺住職であった鳳山元瑞が嫌いというか、どうも、合わなかったようで、この『見聞宝永記』では数回にわたり対立しています。
それで、今回は『信心銘』の註釈だそうです。残念ながら、鳳山註『信心銘』は未見ですので、この引用文から知るしか無いのですが、確かに損翁禅師の批評の通り、もし、このような註記をしていたとすると、かなり残念な印象です。そして、この損翁禅師の批評を聞いた、当時大年寺で修行していた愚中は、宗派を改めて損翁禅師の門下となりました。
この僧は、詰外愚中(1679〜1737)であり、損翁禅師門下に入った因縁は以上に見た通りですが、得法して以来、越前三方郡の龍沢寺や、因幡の景福寺に入るなどしています。なお、享保4年(1719)には總持寺五院の如意庵に輪住しましたが、『如意庵輪住帳』から採録した『總持寺誌』(1965年)によれば、龍沢寺から輪住したようです。この三方の龍沢寺、伽藍法は実峰派だったんですね(参考までに景福寺は通幻派)。なお、愚中ですが、損翁禅師の下で修行している時は、今回紹介した因縁があったためか、面山師とともに活動することが多かったようで、しかも、損翁禅師の末期の遺戒の時には、面山師と愚中がともに、枕元に呼ばれています。愚中には著作として『六祖壇経弁疑』があり、更に『景福詰外和尚実録』という語録も遺されているようです。
ところで、『信心銘』の解釈として見てみると、例えば曹洞宗には、太祖・瑩山紹瑾禅師に『信心銘拈提』がありますが、それを確認してみます。瑩山禅師は、「極小は大に同じ、境界を妄絶す」という一文については、「小にして内無し、何の境界をか存せん」と註釈し、境界の大小を問う状況に無いとしています。また、同じく「極大は小に同じく、辺表を見ず」についても、「大にして外無く、終に辺域無し」とし、こちらも辺域の大小を問う状況に無いとしています。ですから、曹洞宗的には、既に大と小とを、色と空とに当て嵌めるというような窮屈な解釈はしないようです。
さて、この記事、後はこの解釈を学んでいきたいと思うのですが、損翁禅師が注目しているのは「極」についてです。「極」とは、窮極の極ですが、実際仏法として窮極ということは、何かに固着することは無く、その逆で無常そのものを直観することをいいます。だからこそ、大小が脱落するわけです。大か小か?といったような凡見は直ちに抛却されてしまって良いといえます。そのことを、具に学ばねばなりません。
この記事を評価して下さった方は、

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。