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第二十二慢人軽法戒(『梵網菩薩戒経』参究:四十八軽戒22)

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現代でもそうですし、かつてもそうでしたが、仏教教団では歴史的に、本当に様々な人を受け容れてきました。そして、世間的には非常に高い地位であった人、実家が経済的に恵まれている人など、いわゆる勝ち組とかエリートといわれるような出自を持つ人も当然にいたわけです。

そういう人が、例えば、中国禅宗の開祖である菩提達磨尊者のように、自分で世間一般の価値観には全く意味が無いと思い、遁世するように出家したのならば、何の問題もありません。ところが実際には、仏教が一定の社会的な位置を持っていると、その仏教の世界に於いて偉くなろうとする場合があります。いわゆる、世間では無理だから、仏教の世界で「セカンドベスト」を目指すような生き方です。

ところが、こういう人が、何時の時代でも無用な混乱を引き起こします。それまで恵まれていたわけですから、そのまま仏教の世界でも、自分が偉くなれる、または偉ぶれると思っているのです。これが、大きな間違いです。よって、今回はその点を『梵網経』を通して考察したいと思います。

なんじ仏子、初始めて出家して未だ解する所有らざるに、而も自ら聡明有智を恃み、或いは高貴年宿を恃み、或いは大姓・高門・大解・大福・饒財七宝を恃み、此を以て憍慢して、而も先学法師の経律を諮受せず。其の法師とは、或いは小姓・年少・卑門・貧窮・諸根不具なりとも、而も実に徳有りて、一切の経律を尽く解す。而も新学の菩薩、法師の種姓を観ることを得ざれ。而も来たりては法師に第一義諦を諮受せざれば、軽垢罪を犯す。
    第二十二慢人軽法戒

前半部分が、冒頭で述べた、自分が偉ぶるための根拠となるような事柄といえます。本人の優秀さ、或いは位が高貴で年齢が高い、或いは家柄が良く、財産を持っている等です。しかし、これらを理由にしたとしても、先学の法師から、経律を特に学ばなければ、罪を得ることとなるのです。それどころか、実力も伴わず、学びもしていないのに偉ぶっていても、一時は良いかもしれませんが、結果的には僧侶としての評価は、地に落ちるといえましょう。

『梵網経』「四十八軽戒」を見ていて思うのは、初学者への教育の徹底、或いは、仏教に志を持つ在家信者に対しての教育の徹底、それを謳っていることでしょうか。ただ漫然と菩薩になるわけも無く、よって、教育が徹底されていくわけですが、それを聞かない人がいたことが、最大の問題なのです。今思えば、我々曹洞宗の宗侶にとってみれば、道元禅師の教えを考えなければならないところです。次のような問題点が指摘されています。

しかあるに、不聞仏法の愚癡のたぐひおもはくは、われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず、われは久修練行なり、得法の晩学を拝すべからず、われは師号に署せり、師号なきを拝すべからず、われは法務司なり、得法の余僧を拝すべからず、われは僧正司なり、得法の俗男・俗女を拝すべからず、われは三賢十聖なり、得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず、われは帝胤なり、得法なりとも臣家・相門を拝すべからず、といふ。かくのごとくの癡人、いたづらに父国をはなれて、他国の道路に跉跰するによりて、仏道を見聞せざるなり。
    『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻

このように、仏法を聞こうとしない愚か者は、その自らの立場のみを振りかざすのです。しかし、果たしてこのようなことが許されるのでしょうか。問題は、「得法しているか否か」なのであります。よって、立場がどれほどであろうと、得法していないのであれば、得法している人に、教えを乞い、学ばねばならないのです。この一巻では、比丘尼や女性全般に対する差別的発想を否定するように構築されているといわれていますが、それは、二十八巻本ともいわれる『秘密正法眼蔵』所収の同巻であり、七十五巻本系統では、主として師に教えを乞うべきことが示されているのです。

そして、同巻の思想的淵源は、この『梵網経』「四十八軽戒」にあるといえましょう。このようにも示されています。

釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重するがゆえに、日日に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、天華を散じて供養すべし。日日三時礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。発心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。
    同巻

この内、後半については既に、本連載の【第六住不請戒(『梵網菩薩戒経』参究:四十八軽戒6)】で触れました。そして、前半部分については、今日採り上げた「其の法師とは、或いは小姓・年少・卑門・貧窮・諸根不具なりとも、而も実に徳有りて、一切の経律を尽く解す。而も新学の菩薩、法師の種姓を観ることを得ざれ」という文脈が影響していることは、明らかです。「卑門」というのは身分差別的、「諸根不具」というのは身体障害者に対する差別に繋がる可能性を有する語句ですので、まずは注意喚起をしておきます。その上で、ここで『梵網経』本文がいおうとしているのは、「法師」とは、一切の経律を会得している人であり、この人がどのような立場や出自などであっても、とにかく師として仰ぎ、教えを学ばねばならないということです。一番の問題は、とにかく学びをせねばならない立場の初心者が、様々な理由を楯にして学ばないことです。

道元禅師はそれを、「種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重する」という言い方でもって批判されました。『梵網経』から受けていることは明らかだといえましょう。曹洞宗では、「十六条戒」を戒本とし、その中に「十重禁戒」があることから、どこか「四十八軽戒」については等閑になっている印象も得ますが、実際、道元禅師はこのように正しく学ばれていることを、我々は肝に銘ずるべきだといえます。

さて、今回採り上げた戒について、道元禅師の直弟子達は、ただこのように述べるのみです。

第廿二、委しく出家法を解せらるるは、深く信ずべし。
    経豪禅師梵網経略抄

本文を丁寧に註釈するというよりは、出家法を詳しく学ぶことを説くのみであるようです。また、中国天台宗の実質的な開祖といって良い、天台智?はこのように述べます。

第二十二に、憍慢不請法戒は、慢は高山の如し、法水住らず。伝化の益に乖く事あり、故に制す。〈中略〉憍慢を以て請せざれば、方に軽失を犯す。
    天台智?『梵網戒経義疏(下)』

智?は「憍慢」を大きな問題としています。それは、以下の文章からも知られます。

此の戒と前の第六の戒と同じく不請法を制すれども、心を以て異と為す。前には懈怠して請せざるを制し、此は憍慢にして請せざるを制す。
    同上

先にリンクを貼っておいた「第六住不請戒」は、智?の見解に依れば「懈怠(サボり、怠け)」が原因だとしていますが、確かにそのように書かれています。一方でこちらは、慢心があるから学ばないというわけです。その両方とも、学人の学びの妨げになることは、いうまでも無いわけですが、『梵網経』では実際の様子が反映されて、慎重に議論していることになるといえましょう。なるほど、偽経だとか、大乗経典だとか、色々と批判がありますが、それでも学ばないわけには行きません。また、こうして見ると、道元禅師が「釈迦牟尼仏のいはく」として、「礼拝得髄」巻で挙げた一節は、二戒を適確に組み合わせて初学者への教誡としていることも分かるわけです。

怠け心から遠離することも難しいですが、慢心から遠離することも難しいですね。とはいえ、それを行わねば、正しく仏道を学ぶことは出来ないのです。慢心は、『妙法蓮華経』に見える「退亦佳矣」の故事のように、仏陀ですら匙を投げたともいわれるので、本当に慎んで学びたいものです。

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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