今日は「十重禁戒」の7回目です。今日は一般的に「不自讃毀他戒」といわれる戒文の話になるのですが、道元禅師の『仏祖正伝菩薩戒教授戒文』ではこれを「不讃毀自他戒」としています。前者は、「自らを讃(たた)え他を毀(そし)らざる戒」ということです。後者は、「自他を讃えも毀りもせざる戒」ということです。前者には、まだ「自他」「讃毀」という対立事項が残り続けています。後者は、その一体を前提にしながら、更に一体の道理を超えていこうとする思想的力動性が見えます。
段々と連載を続けていく内に、ご理解いただける方も出て来たのではないかと思いますが、本来の戒律というのは、集団生活を行って修行を続ける仏教教団に於いて、その修行僧同士の問題を扱う「律」、そして自身の修行の進展を期する自律としての「戒」とがあったわけです。ところで、この両方とも、「自他」の問題を扱っていること、そこが肝心です。そして、今回紹介する戒文は、「自他」の問題を根源的に検討することに他ならないのです。
自讃毀他と云う戒は失を前に立たる戒也。人の為に、自讃毀他を誡むるなり。而菩薩と経に云て菩薩をして受持せしむる故に、好事と云うは、他人に与うと云う。此菩薩は何菩薩ぞ。三乗にも通教にも別教にも皆、これ有り。教教不同也。悪事自ずから己に向かい、好事他人に与うという、是は自未得度先度他なり。
経豪禅師『梵網経略抄』「第七不自讃毀他戒」
自讃毀他は、「自他」の問題と、「讃毀」の問題を、どのように昇華していくかが問われているのであり、菩薩の実践として昇華していくならば、そのあり方の1つに、「自未得度先度他」はあります。よって、先ほど述べた「自他」「讃毀」という2つの対立事項は、ただ単純に無いものとして扱うこともできません。
然者仏戒に自他の詞有るまじきかと覚に、仏法にも自他を談ず。但凡夫は自他に迷ゆへに自他を立てる。仏は自他と云へども其理一也と体脱す。仏法に達せざる時は自と云へば必ず他に対して心得也。或自と思へばこそ自なれ、他と思へばこそ他なれ。自他を亡じて思わず。是を仏法と云と心得者あり、外道の見なり。
同上
仏法に於ける「自他」と、凡夫に於ける「自他」が、自ずと異なった道理であるということを能々抑えていただければと存じます。仏法に達しない場合には、「自」「自己」と聞けば、必ずそこに「他」「他己」が前提になっています。されどそれは、ただ「自他に迷」っているだけなのです。されど、上記引用文で指摘しているように、「自他」をただの思い込みなどと考え、そのような事を思わなければ、自他が亡ずると思い、それこそ仏法だと心得た場合、これはただ「仏道以外の見解」でしかないのです。さて、それでは『梵網経』の本文を確認してみましょう。
なんじ仏子、自讃毀他し、亦た人を教えて自讃毀他せしめば、毀他の因・毀他の縁・毀他の法・毀他の業あらん。而も菩薩は応に一切衆生に代わりて毀辱を加えるを受け、悪事をば自ら己に向け、好事をば他人に与うべし。若し自ら己が徳を揚げて他人の好事を隠し、他人をして毀りを受けしめば、是れ菩薩の波羅夷罪なり。
第七自讃毀他戒
能く、「自讃毀他」とされ、「自讃」と「毀他」という2つの戒が、1つになっていると理解していますが、この本文を見ると、問題は「自讃」よりも「毀他」に置かれていることが分かります。確かに、自讃というときには、自分の功績などを他に対して誇るという問題があります。ただ、それは誰しもが具わることであり、自分のことを宣伝しているだけであれば、他人は聞き流すことも出来ます。それが出来ないのは、「毀他」の時です。以前、【龍樹菩薩の「自法供養」批判】で龍樹の批判を採り上げたこともありましたが、自分の信じる法の素晴らしさが、「他に対して」誇られるとき、龍樹は「吾我の驕慢」が見えるといいます。では、吾我の驕慢を離れているとき、同時に自他を脱落して、「讃毀」からも離れるのです。
「仏法(原文ママ)をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(註・道元禅師『正法眼蔵』「現成公案」巻)という、今の自讃毀他の自他も、此の如く心得べき歟。
『梵網経略抄』「第七不自讃毀他戒」
経豪禅師は、道元禅師の「現成公案」巻の余りに有名すぎる一節を引きながら、自己及び他己の身心の脱落した、その「先」を見ようとしています。その「先」というのは、この脱落されるのは、仏法(仏道)を「習う」というプロセスと、その中で「自己を忘れる」というプロセスとを経た状況でいわれているということです。これは、強引に、自己も他己も無いのだと思い込むこととは違っています。自己を忘れたとき、自ずと他己も忘れられているという状況にいわれていることです。自他が脱落しているのですから、「讃毀」もありません。
抑も自ととくとも讃なし、他ととくとも毀なし。都て仏法の中には自讃毀他あるべからず。自他に繋縛せらるる時、自讃毀他と云はれ、自他を解脱すれば不自讃毀他なり。
同上
自他ともに脱落した状況からは、「讃毀」も自ずと無くなります。それは、「讃毀」というのは、全て「吾我の都合」がその根底にあるからです。しかし、都合が出て来ようも無い状況にあっては、自讃毀他があるはずがないのです。よって、「自他」に把われ迷うとき、「自讃毀他」となり、転じて解脱すれば「不自讃毀他」となります。ところで、冒頭でも申し上げたように道元禅師の『仏祖正伝菩薩戒教授戒文』では、この戒文を「不讃毀自他戒」としています。「自他を讃えも毀りもせざる」という戒になります。そして、道元禅師の直弟子達は、「不自讃毀他」から「不讃毀自他」への繋がりを見ています。
句句中妙法をのみ説、汝等所行是菩薩道ととく、国土を解にも、十方仏土中、唯有一乗法と説、『法華経』不説他人好悪長短と説く、先師は不讃自他と仰せらる。不同に似たれども、仏智は一なり。修多羅門には不説師説は不讃と説。是相伝の義なるべし。此時、位同大覚位はあらはるる也。
同上
『法華経』には、他人の好悪長短を説かず(「安楽行品」)、それに対して先師(ここは詮慧禅師であろう)は、「不讃自他」とされています。つまり、『法華経』は、「毀他」を説いており、宗門では「不讃」を説いているのです。この道理は、実は表裏一体であり、この時、「位、大覚位に同じくする」のです。
知るべし、已に自己をならふとき、尽十方界是自己也と道取するが故、自己の外に他己有るべからず。然者、自讃の理見成するとき、自讃の外に毀他有るべからずとならうを一句に心得とは云う也。此故、自讃毀他をやがて持戒とは云う也。
同上
ここでいわれる「自讃」とは、「自己をならう」プロセスを経たものであり、尽十方界が、即ち自己である時をいわれます。よって、この尽十方界そのものを「讃」ずる時、そこに「毀他」はあり得ません。我々は、自己に迷うというプロセスから、自己を忘れ脱落し、その上で尽十方界が自己であるという、万法すすみて修証する「自己」となるとき、まさに〈自−覚〉といわれます。そして、これこそが「不自讃毀他」なのです。そして、結論です。
出世に自己を習うと云は、経巻是自己也、知識是自己也、法性是自己也、法性自己故、凡夫外道の邪計せる自己には非也。然者尽十方は是自己也、是自己は尽十方界也。自己とは父母未生以前の鼻孔也。鼻孔あやまりて自己の手裏にあるを尽十方界と云う。而に自己現成して現成公案也、開殿見仏也と云へり。
同上
我々は、どこまでもこの法味を味わうことこそ必要です。この経巻・知識・法性が、即ち自己であるとき、我々は、いわゆる「生来の自己」とは離れ、尽十方界そのものを自己とするので、「吾我」に把われる必要がありません。そして、これこそが「持戒」なのです。ただ、世俗的な価値観で、戒を護るか否かという基準を持ち出す必要がありません。畢竟、「声聞の持戒は菩薩の破戒」なのです。仏戒・菩薩戒の護持とは、容易ではありません。しかし、不可能だというのでもありません。ただ、世俗的な「護り方」が通用しないといっているのです。まさに、般若(智慧)とともに生きること、それが菩薩の持戒です。
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段々と連載を続けていく内に、ご理解いただける方も出て来たのではないかと思いますが、本来の戒律というのは、集団生活を行って修行を続ける仏教教団に於いて、その修行僧同士の問題を扱う「律」、そして自身の修行の進展を期する自律としての「戒」とがあったわけです。ところで、この両方とも、「自他」の問題を扱っていること、そこが肝心です。そして、今回紹介する戒文は、「自他」の問題を根源的に検討することに他ならないのです。
自讃毀他と云う戒は失を前に立たる戒也。人の為に、自讃毀他を誡むるなり。而菩薩と経に云て菩薩をして受持せしむる故に、好事と云うは、他人に与うと云う。此菩薩は何菩薩ぞ。三乗にも通教にも別教にも皆、これ有り。教教不同也。悪事自ずから己に向かい、好事他人に与うという、是は自未得度先度他なり。
経豪禅師『梵網経略抄』「第七不自讃毀他戒」
自讃毀他は、「自他」の問題と、「讃毀」の問題を、どのように昇華していくかが問われているのであり、菩薩の実践として昇華していくならば、そのあり方の1つに、「自未得度先度他」はあります。よって、先ほど述べた「自他」「讃毀」という2つの対立事項は、ただ単純に無いものとして扱うこともできません。
然者仏戒に自他の詞有るまじきかと覚に、仏法にも自他を談ず。但凡夫は自他に迷ゆへに自他を立てる。仏は自他と云へども其理一也と体脱す。仏法に達せざる時は自と云へば必ず他に対して心得也。或自と思へばこそ自なれ、他と思へばこそ他なれ。自他を亡じて思わず。是を仏法と云と心得者あり、外道の見なり。
同上
仏法に於ける「自他」と、凡夫に於ける「自他」が、自ずと異なった道理であるということを能々抑えていただければと存じます。仏法に達しない場合には、「自」「自己」と聞けば、必ずそこに「他」「他己」が前提になっています。されどそれは、ただ「自他に迷」っているだけなのです。されど、上記引用文で指摘しているように、「自他」をただの思い込みなどと考え、そのような事を思わなければ、自他が亡ずると思い、それこそ仏法だと心得た場合、これはただ「仏道以外の見解」でしかないのです。さて、それでは『梵網経』の本文を確認してみましょう。
なんじ仏子、自讃毀他し、亦た人を教えて自讃毀他せしめば、毀他の因・毀他の縁・毀他の法・毀他の業あらん。而も菩薩は応に一切衆生に代わりて毀辱を加えるを受け、悪事をば自ら己に向け、好事をば他人に与うべし。若し自ら己が徳を揚げて他人の好事を隠し、他人をして毀りを受けしめば、是れ菩薩の波羅夷罪なり。
第七自讃毀他戒
能く、「自讃毀他」とされ、「自讃」と「毀他」という2つの戒が、1つになっていると理解していますが、この本文を見ると、問題は「自讃」よりも「毀他」に置かれていることが分かります。確かに、自讃というときには、自分の功績などを他に対して誇るという問題があります。ただ、それは誰しもが具わることであり、自分のことを宣伝しているだけであれば、他人は聞き流すことも出来ます。それが出来ないのは、「毀他」の時です。以前、【龍樹菩薩の「自法供養」批判】で龍樹の批判を採り上げたこともありましたが、自分の信じる法の素晴らしさが、「他に対して」誇られるとき、龍樹は「吾我の驕慢」が見えるといいます。では、吾我の驕慢を離れているとき、同時に自他を脱落して、「讃毀」からも離れるのです。
「仏法(原文ママ)をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(註・道元禅師『正法眼蔵』「現成公案」巻)という、今の自讃毀他の自他も、此の如く心得べき歟。
『梵網経略抄』「第七不自讃毀他戒」
経豪禅師は、道元禅師の「現成公案」巻の余りに有名すぎる一節を引きながら、自己及び他己の身心の脱落した、その「先」を見ようとしています。その「先」というのは、この脱落されるのは、仏法(仏道)を「習う」というプロセスと、その中で「自己を忘れる」というプロセスとを経た状況でいわれているということです。これは、強引に、自己も他己も無いのだと思い込むこととは違っています。自己を忘れたとき、自ずと他己も忘れられているという状況にいわれていることです。自他が脱落しているのですから、「讃毀」もありません。
抑も自ととくとも讃なし、他ととくとも毀なし。都て仏法の中には自讃毀他あるべからず。自他に繋縛せらるる時、自讃毀他と云はれ、自他を解脱すれば不自讃毀他なり。
同上
自他ともに脱落した状況からは、「讃毀」も自ずと無くなります。それは、「讃毀」というのは、全て「吾我の都合」がその根底にあるからです。しかし、都合が出て来ようも無い状況にあっては、自讃毀他があるはずがないのです。よって、「自他」に把われ迷うとき、「自讃毀他」となり、転じて解脱すれば「不自讃毀他」となります。ところで、冒頭でも申し上げたように道元禅師の『仏祖正伝菩薩戒教授戒文』では、この戒文を「不讃毀自他戒」としています。「自他を讃えも毀りもせざる」という戒になります。そして、道元禅師の直弟子達は、「不自讃毀他」から「不讃毀自他」への繋がりを見ています。
句句中妙法をのみ説、汝等所行是菩薩道ととく、国土を解にも、十方仏土中、唯有一乗法と説、『法華経』不説他人好悪長短と説く、先師は不讃自他と仰せらる。不同に似たれども、仏智は一なり。修多羅門には不説師説は不讃と説。是相伝の義なるべし。此時、位同大覚位はあらはるる也。
同上
『法華経』には、他人の好悪長短を説かず(「安楽行品」)、それに対して先師(ここは詮慧禅師であろう)は、「不讃自他」とされています。つまり、『法華経』は、「毀他」を説いており、宗門では「不讃」を説いているのです。この道理は、実は表裏一体であり、この時、「位、大覚位に同じくする」のです。
知るべし、已に自己をならふとき、尽十方界是自己也と道取するが故、自己の外に他己有るべからず。然者、自讃の理見成するとき、自讃の外に毀他有るべからずとならうを一句に心得とは云う也。此故、自讃毀他をやがて持戒とは云う也。
同上
ここでいわれる「自讃」とは、「自己をならう」プロセスを経たものであり、尽十方界が、即ち自己である時をいわれます。よって、この尽十方界そのものを「讃」ずる時、そこに「毀他」はあり得ません。我々は、自己に迷うというプロセスから、自己を忘れ脱落し、その上で尽十方界が自己であるという、万法すすみて修証する「自己」となるとき、まさに〈自−覚〉といわれます。そして、これこそが「不自讃毀他」なのです。そして、結論です。
出世に自己を習うと云は、経巻是自己也、知識是自己也、法性是自己也、法性自己故、凡夫外道の邪計せる自己には非也。然者尽十方は是自己也、是自己は尽十方界也。自己とは父母未生以前の鼻孔也。鼻孔あやまりて自己の手裏にあるを尽十方界と云う。而に自己現成して現成公案也、開殿見仏也と云へり。
同上
我々は、どこまでもこの法味を味わうことこそ必要です。この経巻・知識・法性が、即ち自己であるとき、我々は、いわゆる「生来の自己」とは離れ、尽十方界そのものを自己とするので、「吾我」に把われる必要がありません。そして、これこそが「持戒」なのです。ただ、世俗的な価値観で、戒を護るか否かという基準を持ち出す必要がありません。畢竟、「声聞の持戒は菩薩の破戒」なのです。仏戒・菩薩戒の護持とは、容易ではありません。しかし、不可能だというのでもありません。ただ、世俗的な「護り方」が通用しないといっているのです。まさに、般若(智慧)とともに生きること、それが菩薩の持戒です。
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