古来、日本や中国で用いていた暦(太陽太陰暦:旧暦)では、立春は元日と同じ日に来る場合がほとんどであり、いわゆる除夜(大晦日)は、同時に節分でもあったわけです。まぁ、それも新暦になってからというもの、どちらかといえば季節に合わせて設けられるようになり、最近では今日になっている(一応可動のようです)わけです。ですので、古人が書いた立春に関する一文は、元旦そのものか、それに近い日付だったわけで、その点は合わせて考えてみないといけません。
よって今日は伝統的に行われる立春に添付される「立春大吉札」を紹介しましょう。これは、寺院の平穏や、社会に生きる人心の幸福を祈るために、「立春大吉」と書かれた札を貼ることです。曹洞宗では大本山永平寺を開かれた道元禅師以来、立春の日に読経祈祷して、「立春大吉」と書いて三宝印が押された護符を、山門や寺内に貼るなどする「立春貼符」の儀を行い、同符は檀信徒にも配布する場合があります。永平寺には道元禅師が書かれた「立春大吉文」という文書が伝わっています。
その行持の行い方ですが、以下の通りです。
住持、預め立春大吉の符を書し、三宝印を押して、祝聖諷経後の一篇消災呪に加持し、諸堂に貼す。監寺の所管なり。
面山瑞方師『僧堂清規』巻3
このように、監寺(監院)が、「立春大吉」札を貼るわけです。大概は、戸の両側にある柱の、左右に貼ります。右が「立春大吉」、左が「鎮防火燭」になります。その前に、「立春大吉」札を作らねばならないわけですが、それは、住持の仕事になります。自ら筆を執って書き、「三宝印」を押すのです。そして、当時の立春は1月1日ですから、毎月1・15日に行われる「祝聖諷経(皇帝・天皇・国家の安穏を祈る諷経)」が終わってから、『消災妙吉祥陀羅尼』を唱えて加持します。ところで、「三宝印」の押し方は以下の通りです。
この宝印を押すこととは、三宝の証明を表することなり。是の故に、固く伝法の人に非ざれば、則ち押すことを許さず。押す時は、威儀を具え、予め宝印に向かって、香を焚いて請出す。卓上に安んじて、香に薫じて頂戴す。須く、南無三世十方、一切の常住三宝、光明潅頂し、哀愍して証明せんことを観念し了って、両手を当てて以て、緊要の処に押すべし。一念一押す。
面山瑞方師『洞上室内訓訣』「押三宝印訓訣」
三宝印を押す理由は、三宝の証明を表するためです。そして、三宝がその護符の功徳を保証してくれることになります。よって、普通の三文判のようにぞんざいに扱うことは出来ません。ちゃんと僧衣を付け、搭袈裟をして、香を焚いて取り出し、三宝に祈ってから両手で大切に押すのです。今でこそ、建物の保持には様々な便利な器具がありますが、当時はスプリンクラーもない、セコムやアルソックもない、建物に一度火が点けば、後は人の手ではどうしようもない・・・よって、三宝に祈るのです。
春が来るということは、長い冬が終わり、そして、新たに生命が活き活きする時間が来ることです。それは、我々衆生に準えて考えてみれば、この迷中に悶える凡夫たる我々が、その凡夫であることを克服して、仏を目指して修行し、必ずや成仏するのだという志を立てる機会になるともいえます。しかし、その道のりはまた、穏やかならざるものだといえます。よって、その穏やかならざる道を進むにあたり、ここでも三宝の加護を願い、その功徳を得ようと祈るのです。そこで、今日は曹洞宗の太祖瑩山紹瑾禅師(1264〜1325)の弟子でしたが、最終的に瑩山禅師の弟子である明峰素哲禅師(1277〜1350)の法嗣になった大智禅師(1290〜1366)の偈頌から、「立春」に関する漢詩を見て行きたいと思います。
立春
暖日紅霞碧雲を襯とす。無辺の光景一時新たなり。
大功は宰らず東皇の化。梅華に分付して春を管領せしむ。
『大智禅師偈頌』
古来より、大智禅師の偈頌というのは、曹洞宗の宗乗が反映されていて、それを能く読み込まねばならないといったような考え方があったようです。無論、本来和語でも漢語でも「道歌」というのは、その通りなのでしょうが、しかし、大智禅師の場合にはその後、余りに手本にされすぎたようで、解釈にもずいぶんと手垢が着いていたという指摘をされる方もいます。要するに、解釈する際に参照すべき「お約束」が増えてしまったということですね。
ただ、もし道歌が本当に「道」を示すのであれば、「お約束」をいくら並べても、それは所詮「他人の言葉」に過ぎません。最終的には、自ら修行して得た境涯を賭けて釈すべきであろうと思うのです。ある学者先生による見解を見ていきましょう。
思うに大智偈頌は、感受性豊かな若者の情操陶冶と、知的思索を昂めるためへの好個の教材であり、はたまた道元禅の牙城に迫る絶好の門径でもある。
飯田利行先生『大智偈頌訳』国書刊行会、2頁
飯田先生は、大智偈頌について「珠玉の名句」であるとし、「五山文学の白眉」と評しています。五山文学というと、京都中心で臨済宗が主であり、曹洞宗は余り関係が無いとも思いがちですが、そう独断も出来ないようです。その上で、この偈頌を考えていくと、だいたい以下のような感じでしょうか(なお、訳には承応3年[1654]刊行本を底本にした『続曹洞宗全書』「注解二」所収の『大智禅師偈頌鈔』[万安英種禅師撰とも]を参照しています)。
立春を迎え春の暖かなる太陽は、真っ赤な霞を上衣とし、緑色の雲を下衣としている。
限りない広さの光景は、立春を機会に全てが新たになる。
無功の功である大いなる功は、春の神の教化までを手伝うことはない。
梅華にそれを頼んで、春を管領させるのである。
悟りを意味するともされる梅華に管領されるからには、それに置いて行かれるわけにもいきません。立春に気分を一新し、仏道に励みたいと思います。
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よって今日は伝統的に行われる立春に添付される「立春大吉札」を紹介しましょう。これは、寺院の平穏や、社会に生きる人心の幸福を祈るために、「立春大吉」と書かれた札を貼ることです。曹洞宗では大本山永平寺を開かれた道元禅師以来、立春の日に読経祈祷して、「立春大吉」と書いて三宝印が押された護符を、山門や寺内に貼るなどする「立春貼符」の儀を行い、同符は檀信徒にも配布する場合があります。永平寺には道元禅師が書かれた「立春大吉文」という文書が伝わっています。
その行持の行い方ですが、以下の通りです。
住持、預め立春大吉の符を書し、三宝印を押して、祝聖諷経後の一篇消災呪に加持し、諸堂に貼す。監寺の所管なり。
面山瑞方師『僧堂清規』巻3
このように、監寺(監院)が、「立春大吉」札を貼るわけです。大概は、戸の両側にある柱の、左右に貼ります。右が「立春大吉」、左が「鎮防火燭」になります。その前に、「立春大吉」札を作らねばならないわけですが、それは、住持の仕事になります。自ら筆を執って書き、「三宝印」を押すのです。そして、当時の立春は1月1日ですから、毎月1・15日に行われる「祝聖諷経(皇帝・天皇・国家の安穏を祈る諷経)」が終わってから、『消災妙吉祥陀羅尼』を唱えて加持します。ところで、「三宝印」の押し方は以下の通りです。
この宝印を押すこととは、三宝の証明を表することなり。是の故に、固く伝法の人に非ざれば、則ち押すことを許さず。押す時は、威儀を具え、予め宝印に向かって、香を焚いて請出す。卓上に安んじて、香に薫じて頂戴す。須く、南無三世十方、一切の常住三宝、光明潅頂し、哀愍して証明せんことを観念し了って、両手を当てて以て、緊要の処に押すべし。一念一押す。
面山瑞方師『洞上室内訓訣』「押三宝印訓訣」
三宝印を押す理由は、三宝の証明を表するためです。そして、三宝がその護符の功徳を保証してくれることになります。よって、普通の三文判のようにぞんざいに扱うことは出来ません。ちゃんと僧衣を付け、搭袈裟をして、香を焚いて取り出し、三宝に祈ってから両手で大切に押すのです。今でこそ、建物の保持には様々な便利な器具がありますが、当時はスプリンクラーもない、セコムやアルソックもない、建物に一度火が点けば、後は人の手ではどうしようもない・・・よって、三宝に祈るのです。
春が来るということは、長い冬が終わり、そして、新たに生命が活き活きする時間が来ることです。それは、我々衆生に準えて考えてみれば、この迷中に悶える凡夫たる我々が、その凡夫であることを克服して、仏を目指して修行し、必ずや成仏するのだという志を立てる機会になるともいえます。しかし、その道のりはまた、穏やかならざるものだといえます。よって、その穏やかならざる道を進むにあたり、ここでも三宝の加護を願い、その功徳を得ようと祈るのです。そこで、今日は曹洞宗の太祖瑩山紹瑾禅師(1264〜1325)の弟子でしたが、最終的に瑩山禅師の弟子である明峰素哲禅師(1277〜1350)の法嗣になった大智禅師(1290〜1366)の偈頌から、「立春」に関する漢詩を見て行きたいと思います。
立春
暖日紅霞碧雲を襯とす。無辺の光景一時新たなり。
大功は宰らず東皇の化。梅華に分付して春を管領せしむ。
『大智禅師偈頌』
古来より、大智禅師の偈頌というのは、曹洞宗の宗乗が反映されていて、それを能く読み込まねばならないといったような考え方があったようです。無論、本来和語でも漢語でも「道歌」というのは、その通りなのでしょうが、しかし、大智禅師の場合にはその後、余りに手本にされすぎたようで、解釈にもずいぶんと手垢が着いていたという指摘をされる方もいます。要するに、解釈する際に参照すべき「お約束」が増えてしまったということですね。
ただ、もし道歌が本当に「道」を示すのであれば、「お約束」をいくら並べても、それは所詮「他人の言葉」に過ぎません。最終的には、自ら修行して得た境涯を賭けて釈すべきであろうと思うのです。ある学者先生による見解を見ていきましょう。
思うに大智偈頌は、感受性豊かな若者の情操陶冶と、知的思索を昂めるためへの好個の教材であり、はたまた道元禅の牙城に迫る絶好の門径でもある。
飯田利行先生『大智偈頌訳』国書刊行会、2頁
飯田先生は、大智偈頌について「珠玉の名句」であるとし、「五山文学の白眉」と評しています。五山文学というと、京都中心で臨済宗が主であり、曹洞宗は余り関係が無いとも思いがちですが、そう独断も出来ないようです。その上で、この偈頌を考えていくと、だいたい以下のような感じでしょうか(なお、訳には承応3年[1654]刊行本を底本にした『続曹洞宗全書』「注解二」所収の『大智禅師偈頌鈔』[万安英種禅師撰とも]を参照しています)。
立春を迎え春の暖かなる太陽は、真っ赤な霞を上衣とし、緑色の雲を下衣としている。
限りない広さの光景は、立春を機会に全てが新たになる。
無功の功である大いなる功は、春の神の教化までを手伝うことはない。
梅華にそれを頼んで、春を管領させるのである。
悟りを意味するともされる梅華に管領されるからには、それに置いて行かれるわけにもいきません。立春に気分を一新し、仏道に励みたいと思います。
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