今日、2月22日は、「ニャンニャンニャン」と猫の鳴き声に因んで、「猫の日」なんだそうです。そこで、早速、猫に因んだお話を見ていきたいと思います。なお、【禅林に於ける猫の話】は別に書いておきましたので、総論的なことを知りたい方は、そちらをどうぞ。
建仁年中に法然・大日の二人出来して念仏宗・禅宗を興行す。
法然云く、「法華経は末法に入ては未有一人得者千中無一等云云」。
大日云く、「教外別伝等云云」。
是の両義国土に充満せり。天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつらい、おそるる事、犬の主におをふり、ねづみの猫をおそるるがごとし。国王将軍にみやつかい、破仏法の因縁・破国の因縁を能く説き能くかたるなり。天台・真言等の学者等、今生には餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻を招くべし。
日蓮聖人『開目抄』、下線は拙僧
当時の、いわゆる「顕密体制」の様子を知ることが出来る一文だと思われます。若干、因果論の見解で、応報を実体視する傾向があるように思われますが、それが日蓮聖人という人なので、そのまま引用しています。さて、ここでいわんとしていることは何かと申せば、日本の建仁年間(1201〜04年)に、日本では専修念仏宗と、禅宗が流行ったというわけです。
その牽引役となったのが、専修念仏宗では法然上人で、禅宗では達磨宗の大日坊能忍だとしています。日蓮聖人がいうには、法然上人は「『法華経』であっても、末法に入ってはその力を失うよ」的発言があったり、能忍は「仏陀の真の教えは、教外別伝なのだ」的な発言があったりして、この両者の教えは、それまでの日本仏教の伝統を揺るがしたとしているわけです。そして、教えが広まった結果、それまでの体制側であった天台宗・真言宗の僧侶は、念仏宗や禅宗の信者となってしまった檀那(檀越・檀家)の顔色を窺い、へつらい、恐れているとしているわけです。
そして、その様子を動物の仕草に譬え、「犬が主人に尻尾を振る様子」とか「鼠が猫を恐れる様子」とか述べているわけです。やや言葉が過ぎる気もしますが、繰り返しになりますが、これが日蓮聖人という人なので・・・(以下、同じ)
さて、この「鼠が猫を恐れる様子」については、日蓮聖人、「蛇に睨まれたカエル」的な用法でもって、結構自著に使っているようなのですが、文脈的には同じなので、引用はしないでおきましょう。それにしても、現在の状況から考えてみますと、犬が主に尻尾を振る様子を見ることは出来ても、鼠が猫を恐れる様子というのは、中々見られません。いや、先日とある場所を歩いているとき、鼠の「チュッ?!」という短い叫びが聞こえたと思ったら、猫が大きな鼠を加えて路地から出て来たことがありました。今でも、鼠を捕まえる猫がいることは知っています。でも、それがにらみ合っている場面というのは・・・
それにしても、仏典や仏教説話に出てくる猫は、現代的には余り理解されないほどに肉食動物として描かれています。そして、決して肯定的には捉えられていません。とはいえ、猫は寺院にあって、鼠害対策の最前線に常に立っておりました。その意味では、僧侶の食事を守っていたともいえるわけです。にも関わらず、煩悩の譬えに使われたり、禅僧には真っ二つにされたり・・・でも、それこそが猫なんでしょうなぁ。愛玩するのも良いですが、猫は猫で好き勝手生きている感じです。そして、それは、我々がもし、雁字搦めになっていると思ったら、猫を参考にしてみるのも良いかもしれませんね。
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建仁年中に法然・大日の二人出来して念仏宗・禅宗を興行す。
法然云く、「法華経は末法に入ては未有一人得者千中無一等云云」。
大日云く、「教外別伝等云云」。
是の両義国土に充満せり。天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつらい、おそるる事、犬の主におをふり、ねづみの猫をおそるるがごとし。国王将軍にみやつかい、破仏法の因縁・破国の因縁を能く説き能くかたるなり。天台・真言等の学者等、今生には餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻を招くべし。
日蓮聖人『開目抄』、下線は拙僧
当時の、いわゆる「顕密体制」の様子を知ることが出来る一文だと思われます。若干、因果論の見解で、応報を実体視する傾向があるように思われますが、それが日蓮聖人という人なので、そのまま引用しています。さて、ここでいわんとしていることは何かと申せば、日本の建仁年間(1201〜04年)に、日本では専修念仏宗と、禅宗が流行ったというわけです。
その牽引役となったのが、専修念仏宗では法然上人で、禅宗では達磨宗の大日坊能忍だとしています。日蓮聖人がいうには、法然上人は「『法華経』であっても、末法に入ってはその力を失うよ」的発言があったり、能忍は「仏陀の真の教えは、教外別伝なのだ」的な発言があったりして、この両者の教えは、それまでの日本仏教の伝統を揺るがしたとしているわけです。そして、教えが広まった結果、それまでの体制側であった天台宗・真言宗の僧侶は、念仏宗や禅宗の信者となってしまった檀那(檀越・檀家)の顔色を窺い、へつらい、恐れているとしているわけです。
そして、その様子を動物の仕草に譬え、「犬が主人に尻尾を振る様子」とか「鼠が猫を恐れる様子」とか述べているわけです。やや言葉が過ぎる気もしますが、繰り返しになりますが、これが日蓮聖人という人なので・・・(以下、同じ)
さて、この「鼠が猫を恐れる様子」については、日蓮聖人、「蛇に睨まれたカエル」的な用法でもって、結構自著に使っているようなのですが、文脈的には同じなので、引用はしないでおきましょう。それにしても、現在の状況から考えてみますと、犬が主に尻尾を振る様子を見ることは出来ても、鼠が猫を恐れる様子というのは、中々見られません。いや、先日とある場所を歩いているとき、鼠の「チュッ?!」という短い叫びが聞こえたと思ったら、猫が大きな鼠を加えて路地から出て来たことがありました。今でも、鼠を捕まえる猫がいることは知っています。でも、それがにらみ合っている場面というのは・・・
それにしても、仏典や仏教説話に出てくる猫は、現代的には余り理解されないほどに肉食動物として描かれています。そして、決して肯定的には捉えられていません。とはいえ、猫は寺院にあって、鼠害対策の最前線に常に立っておりました。その意味では、僧侶の食事を守っていたともいえるわけです。にも関わらず、煩悩の譬えに使われたり、禅僧には真っ二つにされたり・・・でも、それこそが猫なんでしょうなぁ。愛玩するのも良いですが、猫は猫で好き勝手生きている感じです。そして、それは、我々がもし、雁字搦めになっていると思ったら、猫を参考にしてみるのも良いかもしれませんね。
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