これは先日、【某宗派の信徒からいただいたお手紙】としてアップした内容の続きの記事である。先日は或る人から来た「手紙」だったが、今回はまた別の人だと思うけど、来た「メール」である。
どうも、N博士という人がいて、この人が説く日蓮聖人の教えが正しいので、一緒に学びましょう、とかいう内容である。その会の名前は、S理会というらしい。まぁ、日蓮聖人関係の熱心な宗教団体って、次から次に出来てくるんですなぁ。で、このメールでは、N博士という人はブログをしているらしく、そこで正しい教えを学びましょう、ということになっている。
それで、来ていたアドレスを辿ってみたところ、たまたま【仏法と神道(103)依正不二と境智冥合は同じですか。】という記事があった。読んでみると、この記事では、「依正不二」を「依法・正法」としている・・・あれ?これだっけか?例えば、道元禅師とかだと、こういう言い方をされている。
火焔裡に処在するときは、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。依正一如なるか、依報・正報あるか、依正同条なるか、依正同隔なるか。
『正法眼蔵』「行仏威儀」巻
ここから、「依正不二」に同義といってよい「依正一如」とは、「依報・正報」という言い方を合わせたものだと分かる。そうなると、先に挙げた記事にある「依法・正法」というのは、何を根拠にしているのだろうか?そういえば、合わせて参考までに、中村元編『仏教語大辞典』(東京書籍)では、以下のような紹介をしている。
依正 えしょう 依報(環境世界)と正報(われわれの身心)。報は果報。正報は正しく生存者その者に報いられた果報であり、依報は正報のよる所で、国土・山河等をいう。
こうある。そして、某ブログで指摘する「依法・正法」の組み合わせについては、何も指摘されていない。ということは、「仏教用語」として考えると、「依報・正報」が正しく、「依法・正法」については間違えている、という事になる。でも、あそこまで偉そうに他人を断罪できる人が、こんな単純な間違いをしているとも思えないので、もしかすると、日蓮聖人の御書に、そう書いているのだろうか?ということで、幾つかの検索を使って調べてみた。
そうすると、真蹟の御書にはこう書いてある。
夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。
『瑞相御書』1275年2月
これは、道元禅師と同じ意味で使われ、辞書の記述とも同じであるから、日蓮聖人は正しく「依報・正報」と用いていることが分かる。では、「依法」とはどこから来たのだろうか?やはり、以下の文脈だろうか?
涅槃経に云く、依法不依人、依智不依識。
『守護国家論』
おそらくこれだろう。ただしこれは、先に挙げたような意味は出て来ない。訓読すれば、「法に依て人に依らざれ、智に依て識に依らざれ」となる。ところが、ここから見た目的には「依法」なんて言葉が出て来るので、勘違いして使ってしまったのだろう。まぁでも、仏教学をかじったことがあるのなら、「依正不二」が「依報・正報」を意味しているというのはすぐに分かりそうなものだけど・・・もしかしてこのN博士、仏教については素人なのだろうか?それで、知ったフリして信者を瞞すという人だとすれば、かなり残念である。
とりあえず拙僧などは、こういう一句でもって、余り信用が置けない人だという理解は出来たので、この人の言動に見える「正しさ」は信用しないことにした。なお、拙ブログについては、いつもどこかで間違っていると拙僧自身感じているので、必要があれば、改めるようにしている。それに、信仰や宗教については、「●●で無ければならない」というような強い思い込みも無い。正しさにしがみつかず、されど満たされる、それが拙僧の思う「お任せの信」である。
なお、これは信者の人だと思うが、折伏か?どういうつもりか知らないけど、拙僧に対してこのブログを薦め、更にはこの会以外の信仰が間違えているという「思い上がったメール」を送ってきたので、敢えて書いた記事である。普通なら、こんな重箱の隅をつつくような真似はしない。それこそ、盤珪禅師がいう「脇稼ぎ」だからだ。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
どうも、N博士という人がいて、この人が説く日蓮聖人の教えが正しいので、一緒に学びましょう、とかいう内容である。その会の名前は、S理会というらしい。まぁ、日蓮聖人関係の熱心な宗教団体って、次から次に出来てくるんですなぁ。で、このメールでは、N博士という人はブログをしているらしく、そこで正しい教えを学びましょう、ということになっている。
それで、来ていたアドレスを辿ってみたところ、たまたま【仏法と神道(103)依正不二と境智冥合は同じですか。】という記事があった。読んでみると、この記事では、「依正不二」を「依法・正法」としている・・・あれ?これだっけか?例えば、道元禅師とかだと、こういう言い方をされている。
火焔裡に処在するときは、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。依正一如なるか、依報・正報あるか、依正同条なるか、依正同隔なるか。
『正法眼蔵』「行仏威儀」巻
ここから、「依正不二」に同義といってよい「依正一如」とは、「依報・正報」という言い方を合わせたものだと分かる。そうなると、先に挙げた記事にある「依法・正法」というのは、何を根拠にしているのだろうか?そういえば、合わせて参考までに、中村元編『仏教語大辞典』(東京書籍)では、以下のような紹介をしている。
依正 えしょう 依報(環境世界)と正報(われわれの身心)。報は果報。正報は正しく生存者その者に報いられた果報であり、依報は正報のよる所で、国土・山河等をいう。
こうある。そして、某ブログで指摘する「依法・正法」の組み合わせについては、何も指摘されていない。ということは、「仏教用語」として考えると、「依報・正報」が正しく、「依法・正法」については間違えている、という事になる。でも、あそこまで偉そうに他人を断罪できる人が、こんな単純な間違いをしているとも思えないので、もしかすると、日蓮聖人の御書に、そう書いているのだろうか?ということで、幾つかの検索を使って調べてみた。
そうすると、真蹟の御書にはこう書いてある。
夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。
『瑞相御書』1275年2月
これは、道元禅師と同じ意味で使われ、辞書の記述とも同じであるから、日蓮聖人は正しく「依報・正報」と用いていることが分かる。では、「依法」とはどこから来たのだろうか?やはり、以下の文脈だろうか?
涅槃経に云く、依法不依人、依智不依識。
『守護国家論』
おそらくこれだろう。ただしこれは、先に挙げたような意味は出て来ない。訓読すれば、「法に依て人に依らざれ、智に依て識に依らざれ」となる。ところが、ここから見た目的には「依法」なんて言葉が出て来るので、勘違いして使ってしまったのだろう。まぁでも、仏教学をかじったことがあるのなら、「依正不二」が「依報・正報」を意味しているというのはすぐに分かりそうなものだけど・・・もしかしてこのN博士、仏教については素人なのだろうか?それで、知ったフリして信者を瞞すという人だとすれば、かなり残念である。
とりあえず拙僧などは、こういう一句でもって、余り信用が置けない人だという理解は出来たので、この人の言動に見える「正しさ」は信用しないことにした。なお、拙ブログについては、いつもどこかで間違っていると拙僧自身感じているので、必要があれば、改めるようにしている。それに、信仰や宗教については、「●●で無ければならない」というような強い思い込みも無い。正しさにしがみつかず、されど満たされる、それが拙僧の思う「お任せの信」である。
なお、これは信者の人だと思うが、折伏か?どういうつもりか知らないけど、拙僧に対してこのブログを薦め、更にはこの会以外の信仰が間違えているという「思い上がったメール」を送ってきたので、敢えて書いた記事である。普通なら、こんな重箱の隅をつつくような真似はしない。それこそ、盤珪禅師がいう「脇稼ぎ」だからだ。
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。