これは、損翁宗益禅師が、かつて北陸道を歩いていたときに見た風景から、仏の道理を直観された様子を伝える内容です。
お師匠さまがいわれるには、「余がかつて、加賀から出羽に回る際に、越後の山上を通った。その時は7月上旬であったが、遥かに北海(日本海のこと)を見れば、電光が赫赫として、雷声は轟々としていた。雲龍が波を叩き、潮を捲いて昇る様子であった。僅かな間に、黒雲が山峰を覆って、雨は車軸の如く降ってきたので、回避することも出来なかった。半時(1時間程度)して晴れ、晴天で(雲を)拭うような様子であった。
さて、雨は実際には海の潮である。海にあればしょっぱいが、龍に捲かれて雨となって降り注ぐときには、僅かな塩味も無い。嗚呼、諸法は無我であり、万物は不定であることとは、皆この様子である。
ただ、これ(海と雨)だけではなく、仏もまた仏では無く、衆生もまた衆生では無く、是も是では無く、非も非では無い。及び、心もまた心では無く、身もまた身では無い。このようにして、起滅は留まることが無い。且くいってみよ、(これらを)喚んで、何となすべきであろうか。
だからこそ、非思量の王三昧に安住するときには、万法と合体してしまうのだ。いうべきであるが、尽十方界真実人体、尽十方界一顆明珠と。しかし、我が屋裏で学んだ人でなければ、(この真実は)共に語ることは難しい」と。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
仰っている内容そのものは、この訳文で大体会得出来たであろうと思われます。それでも概略だけ申し上げれば、損翁禅師が石川県南部から、山形県の辺りに向かう際、越後国内にて海の様子を見られたわけであります。そうすると、海の辺りは電光が激しく、波が空に昇る様子が見えたというのです。或いは竜巻のような現象が起きていた可能性もありますし、また拙僧も以前、山形県の鶴岡市で夏の或る日、海を見ていたら、海の波に向かって雷が落ちる様子を見たことがありますので、そういう情景なども考えておくべきでしょう。
そこで、損翁禅師が歩いているところは、にわかに曇り大粒の雨が降ってきたわけですが、それを見ながら「諸法無我・万物不定」の道理を直観しておられるわけです。これは、海の水はしょっぱいが、それが天空に昇り雨となる時には塩味は無いことから得られています。
そこで、損翁禅師は「諸法無我」を徹底して、仏・衆生・是・非・心・身の一切が、実体の無い様子を示しています。これは、損翁禅師自身が、『金剛般若経』を能く学んでおられたことに由来しているといって良いでしょう。同経ではこういう一節が見えます。
また、一切の衆生は、則ち、衆生に非ず、と説けり。
似たような文脈は多く存在していますが、丁度この記事と対応するので引いてみました。まさに、衆生は衆生では無いとしています。ですが、そのような非相である事象について、損翁禅師は何と喚ぶべきかと聞いています。この答えですが、尽十方界真実人体・尽十方界一顆明珠などと説かれていますが、実際のところは、説似一物即不中であるはずなのです。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。
お師匠さまがいわれるには、「余がかつて、加賀から出羽に回る際に、越後の山上を通った。その時は7月上旬であったが、遥かに北海(日本海のこと)を見れば、電光が赫赫として、雷声は轟々としていた。雲龍が波を叩き、潮を捲いて昇る様子であった。僅かな間に、黒雲が山峰を覆って、雨は車軸の如く降ってきたので、回避することも出来なかった。半時(1時間程度)して晴れ、晴天で(雲を)拭うような様子であった。
さて、雨は実際には海の潮である。海にあればしょっぱいが、龍に捲かれて雨となって降り注ぐときには、僅かな塩味も無い。嗚呼、諸法は無我であり、万物は不定であることとは、皆この様子である。
ただ、これ(海と雨)だけではなく、仏もまた仏では無く、衆生もまた衆生では無く、是も是では無く、非も非では無い。及び、心もまた心では無く、身もまた身では無い。このようにして、起滅は留まることが無い。且くいってみよ、(これらを)喚んで、何となすべきであろうか。
だからこそ、非思量の王三昧に安住するときには、万法と合体してしまうのだ。いうべきであるが、尽十方界真実人体、尽十方界一顆明珠と。しかし、我が屋裏で学んだ人でなければ、(この真実は)共に語ることは難しい」と。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
仰っている内容そのものは、この訳文で大体会得出来たであろうと思われます。それでも概略だけ申し上げれば、損翁禅師が石川県南部から、山形県の辺りに向かう際、越後国内にて海の様子を見られたわけであります。そうすると、海の辺りは電光が激しく、波が空に昇る様子が見えたというのです。或いは竜巻のような現象が起きていた可能性もありますし、また拙僧も以前、山形県の鶴岡市で夏の或る日、海を見ていたら、海の波に向かって雷が落ちる様子を見たことがありますので、そういう情景なども考えておくべきでしょう。
そこで、損翁禅師が歩いているところは、にわかに曇り大粒の雨が降ってきたわけですが、それを見ながら「諸法無我・万物不定」の道理を直観しておられるわけです。これは、海の水はしょっぱいが、それが天空に昇り雨となる時には塩味は無いことから得られています。
そこで、損翁禅師は「諸法無我」を徹底して、仏・衆生・是・非・心・身の一切が、実体の無い様子を示しています。これは、損翁禅師自身が、『金剛般若経』を能く学んでおられたことに由来しているといって良いでしょう。同経ではこういう一節が見えます。
また、一切の衆生は、則ち、衆生に非ず、と説けり。
似たような文脈は多く存在していますが、丁度この記事と対応するので引いてみました。まさに、衆生は衆生では無いとしています。ですが、そのような非相である事象について、損翁禅師は何と喚ぶべきかと聞いています。この答えですが、尽十方界真実人体・尽十方界一顆明珠などと説かれていますが、実際のところは、説似一物即不中であるはずなのです。
この記事を評価して下さった方は、

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。