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第二十四怖勝順劣戒(『梵網菩薩戒経』参究:四十八軽戒24)

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『梵網経』の「四十八軽戒」を学んで思うのは、この中に大乗仏教・大乗戒(菩薩戒)を専門的に学ぶ状況を、菩薩に求めている印象を得ます。今回採り上げる戒のもそれだといえましょう。

なんじ仏子、仏の経律、大乗の正法・正見・正性・正法身有らんに、而も勤学し修習すること能わず。而も七宝を捨てて、反って邪見の二乗・外道・俗典・阿毘曇・雑論・書記を学ぶは、是れ仏性を断じ、障道の因縁にして、菩薩道を行ずるに非ず。若し故らに作す者は、軽垢罪を犯す。
    第二十四怖勝順劣戒

この戒本について大体のところを申し上げておきたいのですが、註釈が必要な用語が多いので、中国天台宗の実質的な開祖である天台智?の註釈などを織り交ぜながら進めたいと思います。まず、智?はこの戒を「不習学仏戒」だと名付けています。そして、「所務を務めず、所不応学を務めるは、出要の道に乖く」としています。また、「菩薩は常に大乗先に在って時節を限らざるべし」ともしております。よって、学ぶべきものを学び、学ぶべきでは無いものを学んではならないということを示そうとしており、その上で、菩薩は大乗を学ばねばならないとされているのです。

また、智?は、「声聞は五歳未だ満たざれば、五法未だ明らかならず」という指摘があるのですが、これは、声聞僧の場合、5年を依止師の下で学ばなければ、五法(五篇)を明らかにすることは出来ないということを指摘されています。つまり、声聞戒・律の学びには時間が掛かることを指摘しています。細かな生活の軌範なので、これは当然でしょう。ただし、この時の学びについて、大乗を基本にするとどうなるのでしょうか。

その疑問があると、この戒について理解が進みます。仏の経律について、大乗の正法・正見・正性・正法身があるのに、それを学ばず、一方で二乗・外道・俗典・阿毘曇・雑論・書記などを学んでしまうと、「仏性を断じ」、「障道の因縁」となり、「菩薩道を行ずることにはならない」としているのです。いわゆる『阿含経典』や、それに関する註釈書には、「仏性論」がありません。ですので、仏性を断じてしまい、自ら仏道を学ぶ際の障害になるといえましょう。そして、当然に仏性が無いので、菩薩道を行ずることも難しくなります。

なお、大乗の「正法」などについてですが、智?の見解を見てみましょう。

仏の経律、大乗の(正)法有りと云うは、通じて菩薩蔵を挙ぐ。
正見とは、謂く万行の解なり。
正性とは、謂く正因の性なり。
正法身とは、謂く正果の性なり。
    智?『菩薩戒経義疏(下)』、段落は拙僧

そこで、これらを考えれば、菩薩蔵(これは、三蔵に続く「四蔵」と理解して良い)を掲げ、その上で、(六度)万行を修め、因果の道理を明かすのが、菩薩の修行だとしているわけです。よって、これこそが菩薩道だということです。「六度万行」とは、例えばこういうことです。

六度万行速やかに円満することを得て、疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ず。
    『大乗本生心地観経』巻六

大乗仏教の中には、六度万行の修行で、阿耨菩提を得るという話になります。曹洞宗ですと、例えば【瑩山禅師『坐禅用心記』参究(6)】で見た通り、瑩山禅師『坐禅用心記』などで、このような菩薩行の長い期間の修行が否定されていたりするので、菩薩行ということの内容もどこか曖昧模糊としている印象ですが、坐禅で摂取し得ると考えられていたのでしょう。

この戒本はとにかく、菩薩の学びをしなければ、菩薩行を正しく進めることは出来ない、という内容なのです。ただし、智?は或る条件の下で、声聞の学びをすることも認めています。

小(乗)を習って大(乗)を助くるは犯せず。外道を伏せんが為にその経書を読むは、亦犯せず。菩薩もし二乗を撥無するも亦名づけて犯と為す。もし二乗の法を学して、二乗を引化し、大乗に入らしめんと欲するが為ならば、犯せざるなり。
    『菩薩戒経義疏(下)』

要するに、二乗(声聞・縁覚)の人を大乗に導くためであれば、菩薩が二乗を学ぶのも良いとしているのです。それは、外道(仏道以外のこと)にも適用されるようです。しかも、菩薩は一切衆生を救うわけで、二乗を否定してはまたそれでも罪になるというわけです。この辺は、いたずらに敵・味方などに分ける愚を指摘しているといえましょう。これも菩薩であります。

それでは、合わせて道元禅師の直弟子達が、この解をどう理解していたかを確認してみましょう。

第廿四、仏経律正見を勤学せず、邪見を学べば軽垢罪を犯す、云々。二乗・外道・俗典・阿毘曇・雑論・書記、是等を仏道〈性歟〉を断じ、障道の因縁とあり。
    経豪禅師梵網経略抄

ほぼ、戒本を略述したのみで、特に膨らましてはいないようです。ただ、菩薩が大乗を専学すべきだという発想は、【第八背正向邪戒】で指摘される通りなので、それと重なるが故に、余計な註釈が無いのかもしれません。なお、拙僧などは、こういう条文に、大乗がそれとして学ばれ難い状況があったのだろうと想像しますし、同時に、これらを根拠として、大乗中心主義というべき仏教文化が東アジアに作られていったのだろうと思うのです。それを、近世以降に、いたずらに「大乗非仏説」として解体させようとする状況、拙僧は余り良いこととは思っておりません。

ところで、『梵網経』の「四十八軽戒」もこれで半分を見終えました。後、2年かかる計算ですが、ゆっくりと学んでいきたいと思います。

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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