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仏教者が紡ぐ言葉の難しさ

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先日、以下のような文章を見つけた。

「3・11」以前、言葉は大量に巷に溢れ、消耗品のように空費されていました。しかし「あの日」を境にして、私たちは発すべき言葉を失いました。いまわれわれはどのような言葉を紡ぐことができるのでしょうか。いま言葉が問われています。言葉が持つ力が本当に問われているのです。
    伊東恵深師「『教行信証大綱』『真宗大綱』刊行に憶う」、『春秋』2011年6月

昨年の震災後3ヶ月の状況である。確かに、あの大きな被害、特に津波被害の状況を目の当たりにすると、ここでいわれている言葉の喪失感は、強く感じられた。だが、その後、少しずつでも言うべき言葉の模索を始めると、そのすぐれた力の方に関心が行った。ただの迎合でもない、慰めでもない、本当に信仰に裏打ちされた、絶対的な安心を得られる言葉の模索へと進んだわけである。

これはつまり、各々の信仰が試されたということである。

信仰が試されたとして、その信仰に裏打ちされた言葉を紡ぐとき、例えば諸事象を切って捨てるかのような大上段に構えた言葉や行動が求められているとは思われない。むしろ、どれほどに悲惨な現実に直面しても、それに眼をつぶることなく、熱心に、かつ強靱に、そして柔軟に寄り添い、言葉を紡ぐ思索と実践を退転しないことが肝心である。そして、これは決して容易ではない。

例えば、震災直後に、この被災を天罰のように述べた人がいた。なるほど、これも見方によっては信仰かもしれない。だが、この信仰は、自らの勝手な解釈を、無造作に現実に当て嵌め、そしてその本人がただ満足しているに過ぎない。ここに、他者はいない。他者はいないからこそ、慈悲はない。慈悲はないからこそ、これは試された信仰の結果ではない。強情と思い込みとを信仰にはき違えただけである。

信仰が試される時とは、他者との関わりの中で、自己のアイデンティティーの喪失に悩む時をいう。この時の他者は、通常の社会であれば、まさに目の前の人であろうが、信仰の場合には超越的他者(神など)でも良い。他者と自己とを相対してみた時、その自分の常識や観念が通用しない事態に至ったときに思い悩むわけだが、ここで試されている。この試しを超える時、強い信仰が出る場合には、ほぼ信仰の退転といって良い。それは柔軟性を撥無し、ただ強情であることにより、困難さを超えようとしたのだ。

一方で柔軟に対応するときこそ、信仰の中心に至るときである。真の意味で相手の立場に立って物を考え、実践するのである。そして言葉を紡ぐのである。道元禅師は「愛語、といふは、衆生をみるに、まづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり」(『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻)と仰ったことがあったが、これも感じられる文意ほど簡単なことではない。だが、今更にこの意義が尊重されねばならないと思われるのだ。

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