道元禅師がこのようなことを仰っておられる。
ほとけののたまはく、布施する人の、衆会のなかにきたるときは、まづその人を、諸人、のぞみみる。
『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻
これは、道元禅師が「四摂法」の「布施」について論じられた箇所である。それで、これは布施行の尊さを示す教えなのだが、「ほとけののたまはく」とあるので、仏典からの引用だと思われているのだが、どうも、適した出典は不明らしい。例えば、以下のような教えが出典として指摘されている。
檀越施主は、衆人敬仰し、見る者歓悦す。子の父を見るが如し。
『増一阿含経』巻24
これは、檀越による布施の功徳が五事あることを示す内の1つである。それで、檀越は多くの人々が尊敬し、見る者は喜びを覚えるという。そこで、これを転じれば、道元禅師が仰る、布施を行ずる人が、衆会の中に来た時は、全ての人がまず、その人を望み見るという。なんだろう?こういう感じだろうか・・・
「おっ?布施をされたスダッタさんだ」
みたいな?でも当然、仏教の話なので、こういう感じであってはならない。
「ちっ!?布施したスダッタかよ。何だよ、金持ち気取りやがって!」
このような言葉の裏には、「嫉妬」の気持ちがある。仏教徒に於いて、嫉妬はあってはならない心持ちである。例えば、『四十二章経』の「第四章」では「十善戒」について説くけれども、「意に三というは、嫉・恚・痴なり」とあって、普段は「貪欲」だとされる箇所が「嫉」になっている。そして、それを行ってはならないという内容である。
この「嫉」という字だが、意味としては「ねたむ」ということである。よって、ねたみの思いとは、必ずや克服されるべき心根として理解されているのである。何故、「ねたみ」が良くないのだろうか?それは、そもそも仏道とは「名聞利養」から離れるべきであるという。その意味では、「ねたみ」とは「自分が名利を得たいのに、それが出来ていない」という心根から導き出されることだ。そして、それは否定され、むしろ「随喜」の気持ちを持たねばならない。それは、他人の善行と、その功徳を讃え、自らもその善行の振る舞いに助力することである。
よって、他人が布施をしたのであれば、まずそれを讃え、そして可能であれば自らも布施をしようと願うべきなのだ。それが、正しき仏教徒の振る舞いである。よって、その想いを、先の『増一阿含経』では、「敬仰」「歓悦」と表現されているのである。だいたいそもそも、「布施」とは与えることである。我が物としないことである。そうであれば、嫉妬などしている暇は無いといえる。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈曹洞宗9〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
ほとけののたまはく、布施する人の、衆会のなかにきたるときは、まづその人を、諸人、のぞみみる。
『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻
これは、道元禅師が「四摂法」の「布施」について論じられた箇所である。それで、これは布施行の尊さを示す教えなのだが、「ほとけののたまはく」とあるので、仏典からの引用だと思われているのだが、どうも、適した出典は不明らしい。例えば、以下のような教えが出典として指摘されている。
檀越施主は、衆人敬仰し、見る者歓悦す。子の父を見るが如し。
『増一阿含経』巻24
これは、檀越による布施の功徳が五事あることを示す内の1つである。それで、檀越は多くの人々が尊敬し、見る者は喜びを覚えるという。そこで、これを転じれば、道元禅師が仰る、布施を行ずる人が、衆会の中に来た時は、全ての人がまず、その人を望み見るという。なんだろう?こういう感じだろうか・・・
「おっ?布施をされたスダッタさんだ」
みたいな?でも当然、仏教の話なので、こういう感じであってはならない。
「ちっ!?布施したスダッタかよ。何だよ、金持ち気取りやがって!」
このような言葉の裏には、「嫉妬」の気持ちがある。仏教徒に於いて、嫉妬はあってはならない心持ちである。例えば、『四十二章経』の「第四章」では「十善戒」について説くけれども、「意に三というは、嫉・恚・痴なり」とあって、普段は「貪欲」だとされる箇所が「嫉」になっている。そして、それを行ってはならないという内容である。
この「嫉」という字だが、意味としては「ねたむ」ということである。よって、ねたみの思いとは、必ずや克服されるべき心根として理解されているのである。何故、「ねたみ」が良くないのだろうか?それは、そもそも仏道とは「名聞利養」から離れるべきであるという。その意味では、「ねたみ」とは「自分が名利を得たいのに、それが出来ていない」という心根から導き出されることだ。そして、それは否定され、むしろ「随喜」の気持ちを持たねばならない。それは、他人の善行と、その功徳を讃え、自らもその善行の振る舞いに助力することである。
よって、他人が布施をしたのであれば、まずそれを讃え、そして可能であれば自らも布施をしようと願うべきなのだ。それが、正しき仏教徒の振る舞いである。よって、その想いを、先の『増一阿含経』では、「敬仰」「歓悦」と表現されているのである。だいたいそもそも、「布施」とは与えることである。我が物としないことである。そうであれば、嫉妬などしている暇は無いといえる。
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈曹洞宗9〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。