毎月講読している岩波書店『図書』に、『中世日本の予言書』(岩波新書)の作者である小峯和明氏が、「災害と〈予言文学〉―過去と未来を繋ぐ」という一文を寄稿されていた。これを拝見していた時、小峯氏が『方丈記』に言及されていたのを見て、そういえば、確かにあの本には地震災害のことが書いてあったなぁ、と思い出したわけである。そこで、この記事では、改めてかつての日本を襲った地震の様子を見ることにしたい。この記事は【鎌倉時代の地震と禅僧】の後続記事だと考えていただければ良い。なお、この記事のタイトルは『平家物語』となっているが、全五段に分かれる『方丈記』の第二段に記されている元暦の地震については、内容がほぼ『平家物語』巻十二「大地震」に相当するのである(例えば地震学者の都司嘉宣氏の論考PDFを参照願いたい)。以下には、その訳を挙げておこう。
同じ年(一一八五年)の七月九日、正午頃、大地が立て続けに動き、それがしばらく続いた。赤県(都)の内、白河のほとりにあった六つの勅願寺は、皆壊れて崩れてしまった。(法勝寺の)九重の塔も、上六重までが震えて落ちてしまった。得長寿院も、三十三間の御堂が、十七間まで震え倒れてしまった。皇居を始めとして、人々の家々、各地にある神社・仏閣などまですっかり破れて崩れてしまった。
崩れる音は、雷の如くであり、巻き上がった塵は煙のようであった。天は暗くなり、日の光は見えなくなった。老人も若者も、皆魂消てしまい、全ての人々は心労を重ねた。また、(都以外の)遠近の諸国も同様の状況であった。
大地が裂けて水が湧き出て、(山上にある)盤石も割れて谷に落ちた。山が崩れて河を埋め、海も漂い浜を浸した。なぎさを往く船は波に揺られ、陸を往く馬は足場を定めることも出来なかった。洪水が来たが、丘に登ってもどうすることもできない。猛火が燃え来たら、河を隔てていても避けることは出来ない。
全くどうしようもないのが大地振(大地震に同じ)である。鳥ではないから空に逃げるわけにもいかず、竜ではないから雲に上るわけにもいかない。白河・六波羅・京中では建物の下敷きになって死んだ者が、どれほどの数か知られない。
「四大では、水・火・風は常に害をなすが、大地においては異変は起きないはずなのに、これはどうしたことか?」といって、身分の上下に関わらず、(身を守るために)引き戸や襖を立てて、天が鳴り、余震が来る度に、「今にも死んでしまう」といいながら、声を振るって念仏を申していた。
岩波文庫本『平家物語(四)』290頁、拙僧ヘタレ訳
これが、いわゆる「元暦の大地震」である。先に指摘した都司氏の論考では、この記述は液状化現象を指摘したものとして、日本国内で2番目に古いものとされている。なるほど、京都の市街地の地下には豊富な地下水が流れるとはいうが、それが地面自体の不安定化を引き起こした地震によって一気に噴出してきたのであろう。
さて、これを見る限り、当寺の京都、特に「白河」という辺りにあった立派で豪奢な勅願寺が大きな被害を受けたことが分かる。「白河」というのは、元々京都の洛外であったが、藤原氏が別荘を建てるなどしたため、むしろ洛中よりも政治的な中心となるなどしている地域であったという。現在でいうところの、「左京区岡崎」が該当する。
この辺である。かつては、ここもいわゆる火葬場であったのだが、後には寺院が乱立する地域となった。しかも、名前の通り、「河」も多い地域で、地盤としては決して良い土地とはいえなかったのであろう。なお、この一文で更に気になる所が幾つかある。それは、建物の下敷きになって死んだ者が多いという記述である。よほど多くの建物が倒壊したと見える。瓦屋根などであれば、確かに助かりようは無いと思われる。茅葺きなら何とかなりそうだが・・・また、「四大」に関する解釈である。四大とは、仏教で説く元素であり、「地・水・火・風」である。ここで、「水」「火」「風」については、人間の生活に害をなすという。洪水や火災、或いはつむじ風(竜巻)などがイメージされているといえよう。頻繁に起きたであろうそれらの災害を引き起こす、三大が恐怖されていた。
そして、「大地」だけは異変が起きないと信じられていたという。ところが、「地震」がある。よって、拠り処であった大地ですらも揺らぐというので、人々が非常に恐怖する様子が伝わる。しかし、よくよく考えてみれば、前掲した【鎌倉時代の地震と禅僧】という記事でも書いたけれども、仏教では地震をただの災害としてだけではなく、仏陀に関係する様々な慶事が起きた「奇瑞」として解釈されることがある。それを考えれば、ここまで恐怖されるということは、民衆はもちろんのこと、この『平家物語』の作者にしてもそういう解釈を知らなかった可能性がある。
ただ、むしろ、そういう仏教的解釈を超えて、とにかく地震に恐怖した民衆の気持ちを我々は受け取っていくべきであろう。
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同じ年(一一八五年)の七月九日、正午頃、大地が立て続けに動き、それがしばらく続いた。赤県(都)の内、白河のほとりにあった六つの勅願寺は、皆壊れて崩れてしまった。(法勝寺の)九重の塔も、上六重までが震えて落ちてしまった。得長寿院も、三十三間の御堂が、十七間まで震え倒れてしまった。皇居を始めとして、人々の家々、各地にある神社・仏閣などまですっかり破れて崩れてしまった。
崩れる音は、雷の如くであり、巻き上がった塵は煙のようであった。天は暗くなり、日の光は見えなくなった。老人も若者も、皆魂消てしまい、全ての人々は心労を重ねた。また、(都以外の)遠近の諸国も同様の状況であった。
大地が裂けて水が湧き出て、(山上にある)盤石も割れて谷に落ちた。山が崩れて河を埋め、海も漂い浜を浸した。なぎさを往く船は波に揺られ、陸を往く馬は足場を定めることも出来なかった。洪水が来たが、丘に登ってもどうすることもできない。猛火が燃え来たら、河を隔てていても避けることは出来ない。
全くどうしようもないのが大地振(大地震に同じ)である。鳥ではないから空に逃げるわけにもいかず、竜ではないから雲に上るわけにもいかない。白河・六波羅・京中では建物の下敷きになって死んだ者が、どれほどの数か知られない。
「四大では、水・火・風は常に害をなすが、大地においては異変は起きないはずなのに、これはどうしたことか?」といって、身分の上下に関わらず、(身を守るために)引き戸や襖を立てて、天が鳴り、余震が来る度に、「今にも死んでしまう」といいながら、声を振るって念仏を申していた。
岩波文庫本『平家物語(四)』290頁、拙僧ヘタレ訳
これが、いわゆる「元暦の大地震」である。先に指摘した都司氏の論考では、この記述は液状化現象を指摘したものとして、日本国内で2番目に古いものとされている。なるほど、京都の市街地の地下には豊富な地下水が流れるとはいうが、それが地面自体の不安定化を引き起こした地震によって一気に噴出してきたのであろう。
さて、これを見る限り、当寺の京都、特に「白河」という辺りにあった立派で豪奢な勅願寺が大きな被害を受けたことが分かる。「白河」というのは、元々京都の洛外であったが、藤原氏が別荘を建てるなどしたため、むしろ洛中よりも政治的な中心となるなどしている地域であったという。現在でいうところの、「左京区岡崎」が該当する。
この辺である。かつては、ここもいわゆる火葬場であったのだが、後には寺院が乱立する地域となった。しかも、名前の通り、「河」も多い地域で、地盤としては決して良い土地とはいえなかったのであろう。なお、この一文で更に気になる所が幾つかある。それは、建物の下敷きになって死んだ者が多いという記述である。よほど多くの建物が倒壊したと見える。瓦屋根などであれば、確かに助かりようは無いと思われる。茅葺きなら何とかなりそうだが・・・また、「四大」に関する解釈である。四大とは、仏教で説く元素であり、「地・水・火・風」である。ここで、「水」「火」「風」については、人間の生活に害をなすという。洪水や火災、或いはつむじ風(竜巻)などがイメージされているといえよう。頻繁に起きたであろうそれらの災害を引き起こす、三大が恐怖されていた。
そして、「大地」だけは異変が起きないと信じられていたという。ところが、「地震」がある。よって、拠り処であった大地ですらも揺らぐというので、人々が非常に恐怖する様子が伝わる。しかし、よくよく考えてみれば、前掲した【鎌倉時代の地震と禅僧】という記事でも書いたけれども、仏教では地震をただの災害としてだけではなく、仏陀に関係する様々な慶事が起きた「奇瑞」として解釈されることがある。それを考えれば、ここまで恐怖されるということは、民衆はもちろんのこと、この『平家物語』の作者にしてもそういう解釈を知らなかった可能性がある。
ただ、むしろ、そういう仏教的解釈を超えて、とにかく地震に恐怖した民衆の気持ちを我々は受け取っていくべきであろう。
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