今回から、「約300字で仏教」のカテゴリーを、「良寛禅師一口戒語」にしたい。この語は、あの江戸末期の禅僧・詩僧である大愚良寛禅師が、折に触れて、様々な「短いお諭し」として書いていたものを、集成したものだという(永久岳水先生『禅門曹洞法語全集(乾)』所収)。詳しくいうと問題がないわけではないようだが、ただ、今回はあくまでも良寛禅師の言葉として採り上げて考えてみたい。なお、元々がたった一言であるので、拙僧の解説も最小限に留めたい。全部で100語あるのだが、場合によっては2つ3つを一回で採り上げることにもなるかと思うので、全体の数はそれよりも少ない可能性があることを、予め申し上げておきたい。
早速、「その1」を示そう。
あやまちをかざる。
あやまちをかさぬる。
これがその語である。今回は、2つが意味的に近かったので採り上げてみた。これらはただ、我々は味わい、そして自らの戒めとするだけである。内容だが、誤ったことをしてしまったのに、飾って誤魔化そうとすること、そして、過ちが無くなったという「思い込み」をして、また過ちを重ねてしまうことを問題視されている。しかし、これを、自分が悪いことをしているという自覚がある内は、まだ軌道修正の余地もある。でも、悪いことをしているという自覚すらない場合には、救いようがない。
その点から、良寛さんの言葉は、まだ人としての可能性を信じているものだといえる。
このような様子で、しばらく連載を続けていきたいと思う。お付き合いいただきたい。
従来の記事は【カテゴリー良寛禅師一口戒語】からどうぞ。
この記事を評価して下さった方は、
を1日1回押していただければ幸いです。
早速、「その1」を示そう。
あやまちをかざる。
あやまちをかさぬる。
これがその語である。今回は、2つが意味的に近かったので採り上げてみた。これらはただ、我々は味わい、そして自らの戒めとするだけである。内容だが、誤ったことをしてしまったのに、飾って誤魔化そうとすること、そして、過ちが無くなったという「思い込み」をして、また過ちを重ねてしまうことを問題視されている。しかし、これを、自分が悪いことをしているという自覚がある内は、まだ軌道修正の余地もある。でも、悪いことをしているという自覚すらない場合には、救いようがない。
その点から、良寛さんの言葉は、まだ人としての可能性を信じているものだといえる。
このような様子で、しばらく連載を続けていきたいと思う。お付き合いいただきたい。
従来の記事は【カテゴリー良寛禅師一口戒語】からどうぞ。
この記事を評価して下さった方は、
