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本当に雲居禅師の言葉?

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某100円ショップで売っている『仏教名句小辞典』(当然に、値段は100円)というのがあって、それを見ていたら、こんな記事があった。

師に逢うて学ばざれば、去りてのち悔ゆ。
賢に逢うて交らざれば、別れてのち悔ゆ。
親に仕えて孝ならざれば、別れてのち悔ゆ。
主に仕えて忠ならざれば、退きてのち悔ゆ。
義を見てなさざれば、過ぎてのち悔ゆ。
危うきをみて遠ざければ、陥りのち悔ゆ。
財を得て施さざれば、失いてのち悔ゆ。
国を得て仁ならざれば、亡びてのち悔ゆ。
因果を信ぜざれば、報いてのち悔ゆ。
菩提を信ぜざれば、死してのち悔ゆ。
    雲居禅師道膺。曹洞宗、中国の人、弘覚禅師と号す。

で、まぁ、拙僧なりに色々と調べてみたんだけど、これが本当に雲居禅師の言葉かどうかは分からず終いであった。検索なども使ったが、『大正蔵』には該当する語が無いようであるから、別の典籍なのかもしれない。そうだとすると、ちょっとした手間では調べが付かない。後は、識者からのコメント待ちである。

さておいて、雲居道膺禅師といえば、我々日本曹洞宗の系統からいえば、洞山良价禅師の正嫡であって、「曹洞宗」という名前の元になったとも伝えられる曹山本寂(元証大師)よりも、貴いという評価もある。

曹洞宗の称は、曹山を称じくわふるならん。もししかあらば、雲居・同安をもくわへのすべきなり。雲居は人中天上の導師なり、曹山よりも尊崇なり。
    『正法眼蔵』「仏道」巻

道元禅師はこのように批判される。これは、「曹洞宗」という呼称自体を批判された道元禅師が、その付け方に文句を付けた箇所である。「曹洞宗」が、「洞山」に「曹山」を加えたモノだとするならば、同じように尊崇されるべき「雲居(道膺)」と「同安(道丕)」を加えて載せるべきだという(同安は、雲居の法嗣)。そして、その理由に、雲居が、人間界・天上界に誇るべき導師だからだという。

この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。
    「海印三昧」巻

ただし、別の巻では、或る語句を通して、曹山本寂にも評価を捧げている。この辺が『正法眼蔵』を読む時の難しさである。雲居は曹山よりも尊崇だとされるのに、一方で、曹山も「正的」であるというのだから、表面的に読めば、これはただの矛盾である。しかし、拙僧つらつら鑑みるに道元禅師の言説は常に是々非々である。よって、部分ではあるが、その文脈では、それは普遍的事実である。しかし、別の文脈では、また別の理解が必要となる。それらは矛盾ではない。

『正法眼蔵』では、雲居禅師の言葉を主題にして論じられた巻がある。それが、「恁麼」「密語」巻である。また、主題ではないものの、重要な機縁として、「看経」巻や、「仏向上事」巻にも雲居禅師(後者は本師の洞山禅師との問答)の言葉が見える。よって、我々は雲居禅師の言葉に親しむ機会が多いのだが、どうしても、一般の在家信者の方には、親しみがないかもしれない。概論書などでも「曹洞宗」という呼称の紹介に、「曹山と洞山」などといわれてしまうからだ(一説には曹渓[慧能]と洞山)。

蓋し洞山の宗は、曹山に因って顕ならんか。故に曹洞宗と名づく。この一宗は洞山より立つ、これを始めとす。
    『五家宗旨纂要』(中国清代の編)

かなり時代は下るが、曹洞宗を概観すると、上のような評価になるようだ。よって、当記事で冒頭に挙げた語句が、本当に雲居禅師の言葉なら、その名前も広がるのではないか?などと思って調べてみたのである。残念ながら、結論が出る前に、記事にしてしまったが、事情通の方からコメントが頂けるかもしれないし、とりあえずは、この辺にしておきたい。

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