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「直須勤学」という教え

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道元禅師は、「直須勤学」という表現を用いられる。例えば以下のような文脈である。

無情説法を参学せん初心・晩学、この国師の因縁を直須勤学すべし。
    『正法眼蔵』「無情説法」巻

この場合の「国師」とは、大証国師・南陽慧忠禅師のことである。「無情説法」は後に曹洞宗系統で大いに参究される宗旨であるが、原点といえば、大証国師の教えということになる。よって、道元禅師は「直須勤学」すべきだというのである。

仏道の寒暑、なほ愚夫の寒暑とひとしかるべし、と錯会することなかれ。直須勤学すべし。
    「春秋」巻

こちらは、中国曹洞宗の洞山良价禅師に関わる教えである。「寒暑」というのは、仏道の道理であり、法のはたらきそのものである。よって、その法のはたらきという観点で会得すべきだといえ、道元禅師はそれを、「直須勤学」とされたのである。

この「直須勤学」という用語だが、訓読すれば、「直須(すべか)らく、勤学すべし」ということになる。なお、この語句そのものの出典としては、『真字正法眼蔵』第115則として引用された、以下の一節となろう。

仰山乃ち勧めて云く、「直須らく仏法を勤学すべし、容易なることを得ざれ」。

よって、「直須勤学」には、「不得容易」がセットで用いられていることを、我々は加味すべきである。道元禅師は、仏法を容易に会得することを大いに嫌った人である。だが、これは、この字義通りには取らないで欲しい。字義通りに取る人は、何やら不可知論的な理解をしたり、とにかくハードルのみを高くして理解しようとするだろう。そうすると、さも会得した人だけが偉いという、エリート信仰に陥る。この場合はそうではない。

そもそも、「直須勤学」という時には、その「会得の仕方」が問われている。それはつまり、容易に理解せずに、必ず「分からない部分」を残して置くべきだということになる。それは、「理解していないと嘯く」のではなくて、自分の理解を、十全とはしないということである。例えば、以下のような一節が知られる。

身心に、法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。
    「現成公案」巻

ここで、法が身心に充足していたとしても、「ひとかたはたらず」である。よって、「たらず」とも「勤学」、いや、「たらず」こそ「勤学」といえる。その意味では、「直須勤学」とは、「ここで勤学し終わった」と満足することが目的ではなくて、更に勤学しなくてはならぬと学び続けること、いわゆる不染汚に修証していくことの肝心さを説く語として理解されなくてはならない。その意味で、「直須勤学」は把握されるべきであろう。

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