以前、「和顔愛語」についてその出典を聞かれ、機械的に仏典から『華厳経』を答えておいたことがあったのだが、こういうところの判断はとても難しい。例えば、道元禅師はこう仰っている。
ただまさに、やはらかなる容顔をもて、一切にむかふべし。
『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻
これは、「和顔」のことであるとされる。確かに『華厳経』では、和顔愛語を用いれば、自他共に害することが無いとしているので、人と人の関係の中で、円滑なる関係を保つのに必要な実践だと分かる。まだ、同巻では「愛語」についても説かれているので、「和顔愛語」については道元禅師が出典のようにいう人もいるが、実際には仏典に見られる言葉である。一例を見ていこう。
阿難、時にかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。建立せられし仏国は常然にして、衰なく変なし。不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。
『仏説無量寿経』
これは、浄土三部経の一である『無量寿経』の一節であり、法蔵菩薩が発願して、自らが開こうとしている極楽浄土について、その荘厳を行われた。その中に、「和顔愛語、先意承問」が見える。前者については、顔を和らげ、愛語を申し上げることであり、人に優しく接することを促すものといえる。法蔵菩薩は、そういう存在が最も良く他を導き、世界に安寧をもたらすことを承知していたことになろう。
では、「先意承問」についてだが、これは、「相手の意志を先んじて知り、その要求を満たすこと」という意味だという。複数の真宗系ブログなどで同じく解釈していたので、その通りなのだろう。これは、かなりの難易度であるといえよう。何故ならば、他の内容はあくまでも、自ら自身の心掛けや精進で済むけれども、ここだけは他者の心を読む計らいが必要だといえる。
ただし、そこまで思ってみて、「いや?意外と神秘的な話ではないのかもしれない」とも思った。これは、日本的解釈であることを否定しないが、ここで、まず意を先んじて、相手の苦悩を探るという時、それは「察する」ことを求めているとすれば、苦悩を言われることを待つのでは無くて、苦悩を共有することを求めているといえよう。
ここには、余程の精神的鍛錬を要する。それは、自ら自身をよくよく観察する必要があるといえる。たいがい、「人の苦しみを知れ」というような言葉を聞くと、我々は自我を強くして、そして、「私はこんなに苦しいのだ」などという。だが、それは自分のみであることもある。ここで察するという時には、共有される苦悩だといえる。つまり、自らの経験を公に開き、その場に於いて苦悩といわれる事象を探り、そして、その共有性を「承問」することだとしてみると、どうだろうか。
相手は、「この人は分かってくれる」と思ってくれることだろう。この信頼感こそが、教化の第一歩だといえる。無論、この「共有される苦悩」は、誰にも共有されるが、それを慎重に見極め、自己自身に限らないところで考察することが難しいのである。和顔愛語も実は容易ではない。ついつい、感情をそのまま顔に出してしまうこともある。それは、喜怒哀楽であるから、「和顔」のみといえない。また「愛語」も同様で、どういう内容かを知っていてもその実践は容易ではない。
やはり、法蔵菩薩の浄土は凡夫では実践しにくい菩薩の境涯にまで昇華させる場所だと理解出来よう。
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ただまさに、やはらかなる容顔をもて、一切にむかふべし。
『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻
これは、「和顔」のことであるとされる。確かに『華厳経』では、和顔愛語を用いれば、自他共に害することが無いとしているので、人と人の関係の中で、円滑なる関係を保つのに必要な実践だと分かる。まだ、同巻では「愛語」についても説かれているので、「和顔愛語」については道元禅師が出典のようにいう人もいるが、実際には仏典に見られる言葉である。一例を見ていこう。
阿難、時にかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。建立せられし仏国は常然にして、衰なく変なし。不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。
『仏説無量寿経』
これは、浄土三部経の一である『無量寿経』の一節であり、法蔵菩薩が発願して、自らが開こうとしている極楽浄土について、その荘厳を行われた。その中に、「和顔愛語、先意承問」が見える。前者については、顔を和らげ、愛語を申し上げることであり、人に優しく接することを促すものといえる。法蔵菩薩は、そういう存在が最も良く他を導き、世界に安寧をもたらすことを承知していたことになろう。
では、「先意承問」についてだが、これは、「相手の意志を先んじて知り、その要求を満たすこと」という意味だという。複数の真宗系ブログなどで同じく解釈していたので、その通りなのだろう。これは、かなりの難易度であるといえよう。何故ならば、他の内容はあくまでも、自ら自身の心掛けや精進で済むけれども、ここだけは他者の心を読む計らいが必要だといえる。
ただし、そこまで思ってみて、「いや?意外と神秘的な話ではないのかもしれない」とも思った。これは、日本的解釈であることを否定しないが、ここで、まず意を先んじて、相手の苦悩を探るという時、それは「察する」ことを求めているとすれば、苦悩を言われることを待つのでは無くて、苦悩を共有することを求めているといえよう。
ここには、余程の精神的鍛錬を要する。それは、自ら自身をよくよく観察する必要があるといえる。たいがい、「人の苦しみを知れ」というような言葉を聞くと、我々は自我を強くして、そして、「私はこんなに苦しいのだ」などという。だが、それは自分のみであることもある。ここで察するという時には、共有される苦悩だといえる。つまり、自らの経験を公に開き、その場に於いて苦悩といわれる事象を探り、そして、その共有性を「承問」することだとしてみると、どうだろうか。
相手は、「この人は分かってくれる」と思ってくれることだろう。この信頼感こそが、教化の第一歩だといえる。無論、この「共有される苦悩」は、誰にも共有されるが、それを慎重に見極め、自己自身に限らないところで考察することが難しいのである。和顔愛語も実は容易ではない。ついつい、感情をそのまま顔に出してしまうこともある。それは、喜怒哀楽であるから、「和顔」のみといえない。また「愛語」も同様で、どういう内容かを知っていてもその実践は容易ではない。
やはり、法蔵菩薩の浄土は凡夫では実践しにくい菩薩の境涯にまで昇華させる場所だと理解出来よう。
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