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三帰依文と三帰礼文

道元禅師は、おそらく晩年に至って、改めて「三帰依」を説いたようなのだが、例えば、それは以下のような文言で知られている。

 その帰依三宝とは、まさに浄信をもはらして、あるひは如来現在世にもあれ、あるひは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して、口にとなへていはく、
 我某甲、今身より仏身にいたるまで、帰依仏、帰依法、帰依僧。
 帰依仏両足尊、帰依法離欲尊、帰依僧衆中尊。
 帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。
 はるかに仏果菩提をこころざして、かくのごとく僧那を始発するなり。しかあれば即ち、身心いまも刹那刹那に生滅すといへども、法身かならず長養して、菩提を成就するなり。
    『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻

現在、我々が一般的に用いる「三帰依文」とは相違していますけれども、道元禅師の時代は、このように唱えることもあったのであろう。「我某甲、今身より仏身にいたるまで」から始まり、「帰依僧竟」で終わる一文は、「三帰依文」に他ならない。現在、我々が主に授戒の場で用いる「三帰依文」は、『仏祖正伝菩薩戒作法』に随っている。これは、『正法眼蔵』「受戒」巻とも違っていて、どう理解すべきか迷うところではあるが、とりあえず、幾つかの唱え方が模索されたのだろう。

問題は、その意図である。

意図としては、拙僧自身、実世界の論文でもちょっと発表したことがあったが、晩年、おそらくは兜率天への往生を目論んでいたであろう道元禅師は、その修行体系に、『観無量寿経』の「三福」を導入したはずである。その中には、三帰を受けることが明記されているのである。よって、三帰が大事、という話になる。

で、現在の我々は、というと、繰り返すが、先に示した道元禅師のような三帰の唱え方はしていなくて、主に「三帰依文」と「三帰礼文」とがある。前者が、授戒などの時に用いられたり、一般的な法要などでも、口寂しいときに導師が唱えてみたりする。何時唱えても、三帰は良いのだ。後者は、「略布薩」に「三帰礼(三帰三拝)」などがあるけれども、礼拝するときに用いられる。

唱え方は、『行持軌範』などに随うと、次の通り。

・三帰依文
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧。
帰依仏無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊。
帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。

・三帰礼文(訓読の場合もある)
自帰依仏、当願衆生、体解大道、発無上意。
自帰依法、当願衆生、深入経蔵、智慧如海。
自帰依僧、当願衆生、統理大衆、一切無礙。

これである。後者の出典は、『華厳経』「浄行品」にはなるのだが、そこに見える文章とは、やや表現が相違する。一番の違いは、この場合「自帰依●」となっており、「自ら、●に帰依す」という風にはなるが、『華厳経』では、「自ら、●に於いて帰する」と唱える。「帰依」が「帰於」である。よって、この辺の違いがあるわけだ。とはいえ、中国には既に、現行の曹洞宗が唱える方法での三帰礼文が見える(天台宗の『法華三昧懺儀』など)ので、訳の問題か、語感の問題か、そういうことがあったのであろう。

問題は、これがあると知っているだけでは話にならなくて、実際に唱えてみたり、礼拝してみることが肝心だということである。もし方法が分からなければ、菩提寺にお聞きいただきたいと思う。英語の「サンキュー」は、元々「三帰をするあなたに礼を言う」という意味で、その語ができたとか(民明書房刊『仏教語からできた英語』参照)。この記事、4月1日向けにしておけば良かった・・・

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