以前から、この人が語る『正法眼蔵』評について、記事にしたいと思っていた。と、その前に、我らが大先輩・井上ひさし氏のそれは、記事にしておいたので、【井上ひさし氏の道元禅師観】からご覧いただきたい。それで、今日は、こちらもまた以前、【里見?『道元禅師の話』の話】という記事にしたことがあるけれども、里見?氏である。
里見氏には、岩波文庫から出た『文章の話』と、『道元禅師の話』とあって、つまり、「文章読本」的視点を持っていた人が、同時に道元禅師についても論じているのだから、何かしらの、『正法眼蔵』評があるだろう、とこう思っていたわけである。ところがどっこい、中々難しかったようで、『文章の話』には何も触れられていない。もちろん、『道元禅師の話』には触れられているのだが、結構残念な記述が多い。
同二年(一二四一)四十二歳。『正法眼蔵』の第七章「仏祖」以下「嗣書」「看経」「仏性」「神通」の第十一章までが成る。試に、以上の仕事を、われら同業者の常用している四百字詰めの原稿紙に換算してみたところ、標題を含めて、約百九十枚となる。現文壇の流行児諸君なら、――なんだ、それッぽっち。俺の二日分にも足らんじゃアないか、とせせら嗤うだろうけれど、……あとは、まア、言わぬが花か。
『道元禅師の話』、230頁
まぁ、文章量については、結果として『正法眼蔵』の本文、注記、解題、解説等々を含めて、岩波文庫本で4冊(旧3冊)程度であり、注記や解説などを取っ払って、本文と若干の解題のみで編集すると、縮刷1冊にまとまってしまう(【プロ仕様の『正法眼蔵』】参照)わけで、大人気作家が数十冊の「全集」を出す状況とはそもそも異なっている。実際、道元禅師はその意味での文筆業ではなく、あくまでも御自身の宗乗の開示と、学人の悟入を促しているわけで、比較する意味がない、というべきであろう。
つまり、里見氏は、『正法眼蔵』についてかなり読み込んだのだろうけれど、余計な評を付すつもりがなく、この辺の文章でお茶を濁した感があるのである。
ところで、以前も疑問にしたのだが、この里見氏が仰る「『正法眼蔵』の第七章「仏祖」以下「嗣書」「看経」「仏性」「神通」の第十一章」という数え方は、何に拠っているのだろうか?それが拙僧には全然分からない。『正法眼蔵』には様々な編集形式があることは、流石に拙ブログの読者の皆さまには良くご承知いただいていることと思う。その中で、こういう里見氏が指摘されるような年代順に考えて良い編集形式は、昨今学ぶ際の基準となる75巻本・12巻本には当てはまらないので、多分に玄透禅師の編集になる本山版95巻本と見るべきか?ところが、95巻本では、以下のように数えていくことになる。
弁道話・摩訶般若波羅蜜・現成公案・一顆明珠・重雲堂式・即心是仏・洗浄・礼拝得髄・渓声山色・諸悪莫作・有時・袈裟功徳・伝衣・山水経・仏祖・嗣書・法華転法華(ここまでで17巻)……
ただし、里見氏はここで「袈裟功徳」と「伝衣」は同一と判断しており、改称しているというので、1巻減るのだが、それでも全然数が合わない。繰り返しになるけれども、何やら全然別の換算方法を採っていることだけは分かるが、それが何に拠っているのか分からないわけである。
何なんだろう?里見氏は内容を分析して、各々の巻に何らかの関係性を考え、それで以て「章」としてもしているのだろうか?だとすれば、すぐに記事にするには行かなくなってきたので、この辺は今少し研究を経て、記事にしておくことにしたい。今日はここまでである。
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里見氏には、岩波文庫から出た『文章の話』と、『道元禅師の話』とあって、つまり、「文章読本」的視点を持っていた人が、同時に道元禅師についても論じているのだから、何かしらの、『正法眼蔵』評があるだろう、とこう思っていたわけである。ところがどっこい、中々難しかったようで、『文章の話』には何も触れられていない。もちろん、『道元禅師の話』には触れられているのだが、結構残念な記述が多い。
同二年(一二四一)四十二歳。『正法眼蔵』の第七章「仏祖」以下「嗣書」「看経」「仏性」「神通」の第十一章までが成る。試に、以上の仕事を、われら同業者の常用している四百字詰めの原稿紙に換算してみたところ、標題を含めて、約百九十枚となる。現文壇の流行児諸君なら、――なんだ、それッぽっち。俺の二日分にも足らんじゃアないか、とせせら嗤うだろうけれど、……あとは、まア、言わぬが花か。
『道元禅師の話』、230頁
まぁ、文章量については、結果として『正法眼蔵』の本文、注記、解題、解説等々を含めて、岩波文庫本で4冊(旧3冊)程度であり、注記や解説などを取っ払って、本文と若干の解題のみで編集すると、縮刷1冊にまとまってしまう(【プロ仕様の『正法眼蔵』】参照)わけで、大人気作家が数十冊の「全集」を出す状況とはそもそも異なっている。実際、道元禅師はその意味での文筆業ではなく、あくまでも御自身の宗乗の開示と、学人の悟入を促しているわけで、比較する意味がない、というべきであろう。
つまり、里見氏は、『正法眼蔵』についてかなり読み込んだのだろうけれど、余計な評を付すつもりがなく、この辺の文章でお茶を濁した感があるのである。
ところで、以前も疑問にしたのだが、この里見氏が仰る「『正法眼蔵』の第七章「仏祖」以下「嗣書」「看経」「仏性」「神通」の第十一章」という数え方は、何に拠っているのだろうか?それが拙僧には全然分からない。『正法眼蔵』には様々な編集形式があることは、流石に拙ブログの読者の皆さまには良くご承知いただいていることと思う。その中で、こういう里見氏が指摘されるような年代順に考えて良い編集形式は、昨今学ぶ際の基準となる75巻本・12巻本には当てはまらないので、多分に玄透禅師の編集になる本山版95巻本と見るべきか?ところが、95巻本では、以下のように数えていくことになる。
弁道話・摩訶般若波羅蜜・現成公案・一顆明珠・重雲堂式・即心是仏・洗浄・礼拝得髄・渓声山色・諸悪莫作・有時・袈裟功徳・伝衣・山水経・仏祖・嗣書・法華転法華(ここまでで17巻)……
ただし、里見氏はここで「袈裟功徳」と「伝衣」は同一と判断しており、改称しているというので、1巻減るのだが、それでも全然数が合わない。繰り返しになるけれども、何やら全然別の換算方法を採っていることだけは分かるが、それが何に拠っているのか分からないわけである。
何なんだろう?里見氏は内容を分析して、各々の巻に何らかの関係性を考え、それで以て「章」としてもしているのだろうか?だとすれば、すぐに記事にするには行かなくなってきたので、この辺は今少し研究を経て、記事にしておくことにしたい。今日はここまでである。
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