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「時の記念日」で「有時」の話

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今日、6月10日は「時の記念日」である。この日の制定経緯は、天智天皇10年(671年)の4月25日に漏刻(水時計)が設置され、宮中に時がつげられるようになったそうで、この天智天皇10年4月25日を太陽暦に直すと671年の6月10日になったため、この日が時の記念日に制定されたとのこと。

それで、毎年この日には、関連した記事をアップすることにしている(一例は【道元禅師と「時の記念日」について】など)わけだが、これまでド定番過ぎて余り採り上げてこなかった『正法眼蔵』「有時」巻について論じてみようと思う。既に、この一巻は月例の勉強会でも申し上げたところではあるが、そこで得た知見なども加えつつ、申し上げたい。

そもそも、この巻は、いわゆるの「時間論」ではない。往々にして勘違いされているのだが、いわゆる西洋哲学的な意味での「時間論」は、厳密な意味で仏教には存在せず、むしろ、「法」の有り様、「事象=諸法」の有り様との関わりの中で考えられるのが通例である。よって、「有時」巻もご多分に漏れず、「有時」とはいいつつ、「法」「諸法」について論じている内容といえる。

その時、この巻を読み解く便りは、冒頭部分にある。その前に、冒頭部分というと、すぐに以下の一節を採り上げて、「道元禅師の時間論」と、派手に論じる人がいるわけだが、残念ながらここに「便り」があるわけではない。

いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。
    「有時」巻

こうあるので、「時=時間」、「有=存在」と訳して、この一節は存在即時間を表現しているとする人がいるのだが、その前に、道元禅師の通常の論法で、「即」が成立する理由を考えれば、これが、独立した形での「存在論」「時間論」を論じているわけではないことはすぐに分かる。道元禅師の「通常の論法」とは、世間に於ける諸事象を、「法=仏法」の上から考えることである。仏法の上で「即」が論じられる。依って、その時の諸事象は対立関係にない。だからこそ、以下の一節が存在する。

この時・この有は、法にあらずと学するがゆえに、丈六金身はわれにあらずと認ずるなり。
    「有時」巻

転じて、「この時・この有」は「法」なのだと理解しなくてはならない。そして、丈六金身は「われ」である。「丈六金身」とは仏陀の身体である。法身である。いわば、我が身とは、尽十方界真実人体の事実としてある可能性を、排除することを許していないことになる。「有時」巻とは、「仏法」についての提唱である。そう考えると、ここで排除されねばならないのは「排除」ということそのものである。以前、「諸悪莫作」巻について採り上げたときも同じことをいった。この一巻は、「諸悪莫作・衆善奉行……」という「七仏通誡偈」について論じた内容であるが、通常の凡見では、「諸悪は作すこと莫れ、衆善は奉行せよ」ということで、善悪の相対的関係を前提に読み解くところである。しかし、道元禅師の宗乗、畢竟、正伝の仏法ではそうではなくて、「諸悪」も「衆善」も、存在の位相・仕方が異なるだけで、「ともに存在している」と理解する。「七仏」という諸仏が、「通誡」した教えなのだから、どこかを排除することが出来ないのである。よって、「諸悪」は、「莫作」として、この世界に於いて「行われないという方法で存在」している。「衆善」は、「奉行」として、この世界に於いて「行われるという方法で存在」している。つまり、「仏法」の上に、ともに存在するという次元から、「諸悪」と「莫作」をあらしめたのが「諸悪莫作」巻の内容である。

同じことは「有時」巻にもいえる。改めて、この巻を読み解く便りとなるのは、冒頭の一節である。

 古仏言、
 有時高高峰頂立、
 有時深深海底行、
 有時三頭八臂、
 有時丈六八尺、
 有時拄杖払子、
 有時露柱燈籠、
 有時張三李四、
 有時大地虚空。
    「有時」巻

敢えて、並列表記してみた。確かに、写本によっては、これらを繋げて表記することもある。だが、河村孝道博士が、良質の写本ということで、春秋社『道元禅師全集』第1・2巻の底本にした能登龍門寺所蔵75巻本系統では、上記のように並列表記されている。それは、転じていえば、この「有時」という言葉の元々の意味は「ある時は」と捉え、これらの並列状態を選択的・排他的状況として考えるようになっている。だが、道元禅師はこれを、先の「諸悪莫作」巻同様に、「仏法」の上に各々存在しているとした。このような存在を、「住法位」という。

だが、そう考えると、我々はすぐに、最初の二句だけを考えても、「高い峰の上に立つ」ことと「深い海の底を行く」こととが、同時に出来るはずはないと考えてしまう。それが凡見である。道元禅師は、以下のように考えている。

しかあるを、仏法をならはざる凡夫の時節に、あらゆる見解は、有時のことばをきくにおもはく、あるときは三頭八臂となれりき、あるときは丈六八尺となれりき、たとへば、河をすぎ、山をすぎしがごとくなり、と。いまは、その山河たとひあるらめども、われすぎきたりて、いまは玉殿朱楼に処せり、山河とわれと、天と地となり、とおもふ。
    「有時」巻

これが、先に拙僧も指摘した「凡見」ということである。「あるときは……となれりき」と、選択的・排他的状況として、これらの事象を捉えてしまうことである。だが、そうであれば、仏法ではない。仏法に選択があってはならない。それは分別知見であり、いわゆるの染汚である。しかし、先に挙げた諸事象の冒頭に「古仏言」となっていることを考えなくてはならない。この諸事象とは「古仏」の言葉である。仏語である。だからこそ、以下のように捉えなくてはならない。

しかあれども、道理この一條のみにあらず。いはゆる、山をのぼり、河をわたりし時に、われありき、われに時あるべし。われすでにあり、時、さるべからず。時、もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時、もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。かの上山・度河の時、この玉殿朱楼の時を呑却せざらんや、吐却せざらんや。三頭八臂は、きのふの時なり、丈六八尺は、けふの時なり。しかあれども、その昨今の道理、ただこれ山のなかに直入して、千峰万峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。三頭八臂も、すなはちわが有時にて一経す、彼方にあるににたれども而今なり。丈六八尺も、すなはちわが有時にて一経す、彼処にあるににたれども而今なり。
    「有時」巻

ここでカギとなるのは、「しかあれども、その昨今の道理、ただこれ山のなかに直入して、千峰万峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず」である。「有時」巻のカギはこの一節である。諸事象を実体的に捉えるのではなく、意識上の「想起」に還元し、その「想起」をもって「有時」としているのである。仏法とは「想起」である。現象学の超越論的還元に等しい、道元禅師による仏法的還元である。この「仏法」とは、この世界の事象一々を実体として見るのではなく、この見るということも、或いは見られた対象も、全てを「仏心上の事実」に還元することをいう(詳しいことは「古仏心」巻も合わせて参究されると良い)。この「仏心」をして「われ」とはいわれ、この場合は、「わが有時」として展開している。よって、悠久の過去も、無限の未来も、豊潤なる現在も、一切が「千峰万峰をみわたす時節」の如く、連山の一々のような遠近法を伴いつつも、「わが有時」に還元されるのである。しかし、そうなることで、諸事象は否定されず、排除されず、排他的関係にならず、ともに「わが有時」であり、この時、それをそのように見ている、つまりは「わが有時」の「わが」と自道取している超越論的主体=仏法の我=この私の在処を「而今」とはいうのである。

転じれば、「而今」の中に「わが有時」があり、諸事象が仏法(=住法位)として展開しているのである。

これさえ会得できれば、同巻はそんなに難しいわけではない。以上は、諸事象の「動き」を排除して、特殊性有時理論として、静態的把握をしてみせたのだが、これを一般性有時理論として、動態的把握を行うために「経歴」の道理を導入すれば、それで「有時」巻の理解で余ることは何も無い。今日は「時の記念日」だそうなので、ごく簡単に「有時」巻について論じてみた。

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