今日6月16日(日)は、「父の日」であります。成立経緯については、【「父の日」に仏教を考える】を参照いただければ良いと思うのですが、毎年申し上げていることで、もし読者の皆さんにとって、お父様がご存命であれば、贈り物をするのが良いようです。ご存命でなければ、仏壇の前にて、線香の1本でも立てて、手を合わせて差し上げてください。
そんなわけで、とりあえず、今日はこんな文脈を見ていきたいところです。
慈父大師釈迦牟尼仏、十九歳の仏寿より、深山に行持して、三十歳の仏寿にいたりて、大地有情同時成道の行持あり。八旬の仏寿にいたるまで、なほ山林に行持し、精藍に行持す。
『正法眼蔵』「行持(上)」巻
道元禅師が、釈迦牟尼仏に対して、「慈父」と呼んでいます。理由は色々とありますが、道元禅師が参照した『妙法蓮華経』「譬喩品第三」の中に、三界の衆生についてこういう表現をしていることが知られています。
釈迦大師道、今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子。
『正法眼蔵』「三界唯心」巻
『法華経』の釈尊は、三界に生きる衆生を「悉く是れ吾が子なり」と称しています。よって、救うべき衆生だということになります。ここから、「慈父」の発想に繋がるわけです。この一節を更に詳しく提唱した一節が以下の通りです。
悉是吾子は、子也全機現の道理なり。しかあれども、吾子かならず身体髪膚を慈父にうけて、毀破せず、虧闕せざるを、子現成とす。而今は父前子後にあらず、子前父後にあらず、父・子あいならべるにあらざるを、吾子の道理といふなり。与授にあらざれども、これをうく、奪取にあらざれども、これをえたり。去来の相にあらず、大小の量にあらず、老少の論にあらず、老少を、仏祖老少のごとく保任すべし。父少子老あり、父老子少あり。父老子老あり、父少子少あり。ちちの老を学するは子にあらず、子の少をへざらんは父にあらざらん。子の老少と、父の老少と、かならず審細に功夫参究すべし、倉卒なるべからず。父子同時に生現する父子あり、父子同時に現滅する父子あり、父子不同時に現生する父子あり、父子不同時に現滅する父子あり。慈父を罣礙せざれども、吾子を現成せり、吾子を罣礙せずして、慈父現成せり。有心衆生あり、無心衆生あり。有心吾子あり、無心吾子あり。かくのごとく、吾子・子吾、ことごとく釈迦慈父の令嗣なり。十方尽界にあらゆる過・現・当来の諸衆生は、十方尽界の過・現・当の諸如来なり。諸仏の吾子は衆生なり、衆生の慈父は諸仏なり。
同上
ここから、独特な「親子の有り様」が展開されていることが分かりますが、これは、いわゆる仏と法と衆生という三者について論じていることになります。それを、仏=父、衆生=子、そして、その現成の道理を法として考えれば良いのです。しかも、その三者は「同時」という参究を通して、「ことごとく釈迦慈父の令嗣なり」に到らねばなりません。これは、法の働きにょって、仏法を受けた衆生の有り様を表現した言葉だと理解出来るでしょう。だからこそ、十方尽界の諸衆生は、十方尽界の諸如来でもあるわけです。
「諸仏の吾子は衆生なり、衆生の慈父は諸仏なり」についても、父子一体の道理が法を媒介に行われていることを会得しなければ、ただの神秘主義的な合一論に陥ります。そして、神秘主義的な合一論は、ただ我々の感覚的問題に終始し、法に基づく自由自在の展開をすることがないように思われます。道元禅師は「同時」という有り様の中で、更に自由に振る舞っておられます。だからこそ、父が老で、子が少であるという或る種の当たり前の発想の中でも、まだ自由でいられるのです。
今日は父の日で、今のところこの日は、一部の商業的な展開に留まっておりますが、本来であれば、父子関係の徹底した反省などがあっても良さそうなものです。それが、仏道を中心に行われると、道元禅師のこの教えのようになると思いますけれども、ここから更に、現実に於いてどう実践していくかという話を検討していくという方向でしょうか。
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そんなわけで、とりあえず、今日はこんな文脈を見ていきたいところです。
慈父大師釈迦牟尼仏、十九歳の仏寿より、深山に行持して、三十歳の仏寿にいたりて、大地有情同時成道の行持あり。八旬の仏寿にいたるまで、なほ山林に行持し、精藍に行持す。
『正法眼蔵』「行持(上)」巻
道元禅師が、釈迦牟尼仏に対して、「慈父」と呼んでいます。理由は色々とありますが、道元禅師が参照した『妙法蓮華経』「譬喩品第三」の中に、三界の衆生についてこういう表現をしていることが知られています。
釈迦大師道、今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子。
『正法眼蔵』「三界唯心」巻
『法華経』の釈尊は、三界に生きる衆生を「悉く是れ吾が子なり」と称しています。よって、救うべき衆生だということになります。ここから、「慈父」の発想に繋がるわけです。この一節を更に詳しく提唱した一節が以下の通りです。
悉是吾子は、子也全機現の道理なり。しかあれども、吾子かならず身体髪膚を慈父にうけて、毀破せず、虧闕せざるを、子現成とす。而今は父前子後にあらず、子前父後にあらず、父・子あいならべるにあらざるを、吾子の道理といふなり。与授にあらざれども、これをうく、奪取にあらざれども、これをえたり。去来の相にあらず、大小の量にあらず、老少の論にあらず、老少を、仏祖老少のごとく保任すべし。父少子老あり、父老子少あり。父老子老あり、父少子少あり。ちちの老を学するは子にあらず、子の少をへざらんは父にあらざらん。子の老少と、父の老少と、かならず審細に功夫参究すべし、倉卒なるべからず。父子同時に生現する父子あり、父子同時に現滅する父子あり、父子不同時に現生する父子あり、父子不同時に現滅する父子あり。慈父を罣礙せざれども、吾子を現成せり、吾子を罣礙せずして、慈父現成せり。有心衆生あり、無心衆生あり。有心吾子あり、無心吾子あり。かくのごとく、吾子・子吾、ことごとく釈迦慈父の令嗣なり。十方尽界にあらゆる過・現・当来の諸衆生は、十方尽界の過・現・当の諸如来なり。諸仏の吾子は衆生なり、衆生の慈父は諸仏なり。
同上
ここから、独特な「親子の有り様」が展開されていることが分かりますが、これは、いわゆる仏と法と衆生という三者について論じていることになります。それを、仏=父、衆生=子、そして、その現成の道理を法として考えれば良いのです。しかも、その三者は「同時」という参究を通して、「ことごとく釈迦慈父の令嗣なり」に到らねばなりません。これは、法の働きにょって、仏法を受けた衆生の有り様を表現した言葉だと理解出来るでしょう。だからこそ、十方尽界の諸衆生は、十方尽界の諸如来でもあるわけです。
「諸仏の吾子は衆生なり、衆生の慈父は諸仏なり」についても、父子一体の道理が法を媒介に行われていることを会得しなければ、ただの神秘主義的な合一論に陥ります。そして、神秘主義的な合一論は、ただ我々の感覚的問題に終始し、法に基づく自由自在の展開をすることがないように思われます。道元禅師は「同時」という有り様の中で、更に自由に振る舞っておられます。だからこそ、父が老で、子が少であるという或る種の当たり前の発想の中でも、まだ自由でいられるのです。
今日は父の日で、今のところこの日は、一部の商業的な展開に留まっておりますが、本来であれば、父子関係の徹底した反省などがあっても良さそうなものです。それが、仏道を中心に行われると、道元禅師のこの教えのようになると思いますけれども、ここから更に、現実に於いてどう実践していくかという話を検討していくという方向でしょうか。
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