先日、とある大学で開催された、日本の宗教者によるセミナーに参加してきた。現代社会の問題、特に悩める若者の有り様などを考える内容であった。その中で、講師として登壇した3人のカウンセラー、お二人はまさに尊敬できる人たちであったが、一人、とんでもないのが混じっていた。伝統的仏教系教団に属する人なのだが、その発言が本当に酷い。
まず、こんなことを述べた。
今時の日本の宗教者は、一切皆苦という真理を考えていない。宗教者も幸せになりたがっている。
この人の発言は、自分可愛さ(?)の余り、他の宗教者に対して過度の批判を寄せることで成立している。一切皆苦だと思っている人はこの人以外にもいると思うよ。ただ、一切皆苦だと思うからといって、その宗教者個人が幸せになることを妨げていない。しかし、まさかの「リア充批判」が出てくるとは思わなかった(笑)
今時の日本のお寺は、全て門戸を閉ざしている。
この人の発言は、何故か自信たっぷりなのだが、実態を反映していない内容で、本当に驚いた。こういう発言というのは、日本では時代を超えて繰り返し行われたことだが、何故全てを調べたわけでは無いだろうに、こういう結論に至れるのか、拙僧は理解に苦しむ。簡単にいえば、ウソでは無いか。せめて、「私が知っているお寺の多くは、門戸を閉ざしている」くらいにしておくべきでは?と思う。
クライアントに向き合うのではなく、共に歩む。
「向き合う」という言葉に、徹頭徹尾違和感を憶えていたこの講師は、「共に歩む」という立場が重要であるという。しかし不思議なのは、それは仏教の本質とまでのいいようであったことだろう。確かに、凡夫的仏教者がいることは間違いないが、一知半解であっても、その一知を頼りに人の問題に向き合い、その人に解決を促すことは不可能では無い。あるいは、その方法を伝えることも、不可能では無い。
つまり、この人の発言には、およそ他人や他人の能力に対する期待が無い。無論、極限というべき、精神的疾患を抱えたクライアントに対応してきたのだから、個人的な実感として絶望するのは構わないが、しかし、全ての人が極限状態にあるわけではない。また、我々には仏性が具わっているはずで、それを信じて、今後仏道に長じていく可能性まで否定することは許されていない。その意味で、この人は他力門・浄土門が仏教の真実だと、無条件に思い込んでいるところに大きな問題がある。
最初の問題に残すが、この講師は、「一切皆苦」という言葉は、生き死にを始め、全てが「苦悩」であって、憎むべき対象なのだ、と主張していた。だが、一切皆苦という時、それは、一切全ての事象が、自分の思い通りにならないという意味であって、憎悪の対象と自分との狭間で苦悩するという内容ではあるまい。この用語を始めとして、幾つかの仏教用語の理解については、大きな違和感を憶えた(「縁」についても、余りに受動的理解に過ぎる。この人は「四正断」などを知らないのだろう)。
まぁ、ここまでは書いてしまうけれども、このカウンセラーの御宗旨は、他力門である。だから、我々のような立場とは、そもそも仏教に対しての理解が異なっている。だが、それを表明するとき、この人は自分の宗旨を信じる人に対して述べるべきであって、あのような複数の宗派がいる場合には、発言内容には、「通仏教」と「自宗の宗旨」とを厳しく峻別するべきであって、それが出来なければ容易に「仏教では・・・」というような発言を行うべきではないと思う。無論、本人にとって、それこそが仏教だ、という信仰の表明を妨げるものではない。だが、その時には、異なる信仰体系を持つ人との摩擦を甘んじて受けねばならないと思うのだ。
それから、これは運営側に申し上げるが、もう少し事前の打ち合わせを密にしておくべきであった。せめて、他の宗教者への、根拠の無い批判はしないように申し入れておくべきであっただろう。このセミナーは、全3回あって、あと2回続くようだが、結構心配になってきた。テーマが良いだけに、講師の資質・言動をとても残念に思った。
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まず、こんなことを述べた。
今時の日本の宗教者は、一切皆苦という真理を考えていない。宗教者も幸せになりたがっている。
この人の発言は、自分可愛さ(?)の余り、他の宗教者に対して過度の批判を寄せることで成立している。一切皆苦だと思っている人はこの人以外にもいると思うよ。ただ、一切皆苦だと思うからといって、その宗教者個人が幸せになることを妨げていない。しかし、まさかの「リア充批判」が出てくるとは思わなかった(笑)
今時の日本のお寺は、全て門戸を閉ざしている。
この人の発言は、何故か自信たっぷりなのだが、実態を反映していない内容で、本当に驚いた。こういう発言というのは、日本では時代を超えて繰り返し行われたことだが、何故全てを調べたわけでは無いだろうに、こういう結論に至れるのか、拙僧は理解に苦しむ。簡単にいえば、ウソでは無いか。せめて、「私が知っているお寺の多くは、門戸を閉ざしている」くらいにしておくべきでは?と思う。
クライアントに向き合うのではなく、共に歩む。
「向き合う」という言葉に、徹頭徹尾違和感を憶えていたこの講師は、「共に歩む」という立場が重要であるという。しかし不思議なのは、それは仏教の本質とまでのいいようであったことだろう。確かに、凡夫的仏教者がいることは間違いないが、一知半解であっても、その一知を頼りに人の問題に向き合い、その人に解決を促すことは不可能では無い。あるいは、その方法を伝えることも、不可能では無い。
つまり、この人の発言には、およそ他人や他人の能力に対する期待が無い。無論、極限というべき、精神的疾患を抱えたクライアントに対応してきたのだから、個人的な実感として絶望するのは構わないが、しかし、全ての人が極限状態にあるわけではない。また、我々には仏性が具わっているはずで、それを信じて、今後仏道に長じていく可能性まで否定することは許されていない。その意味で、この人は他力門・浄土門が仏教の真実だと、無条件に思い込んでいるところに大きな問題がある。
最初の問題に残すが、この講師は、「一切皆苦」という言葉は、生き死にを始め、全てが「苦悩」であって、憎むべき対象なのだ、と主張していた。だが、一切皆苦という時、それは、一切全ての事象が、自分の思い通りにならないという意味であって、憎悪の対象と自分との狭間で苦悩するという内容ではあるまい。この用語を始めとして、幾つかの仏教用語の理解については、大きな違和感を憶えた(「縁」についても、余りに受動的理解に過ぎる。この人は「四正断」などを知らないのだろう)。
まぁ、ここまでは書いてしまうけれども、このカウンセラーの御宗旨は、他力門である。だから、我々のような立場とは、そもそも仏教に対しての理解が異なっている。だが、それを表明するとき、この人は自分の宗旨を信じる人に対して述べるべきであって、あのような複数の宗派がいる場合には、発言内容には、「通仏教」と「自宗の宗旨」とを厳しく峻別するべきであって、それが出来なければ容易に「仏教では・・・」というような発言を行うべきではないと思う。無論、本人にとって、それこそが仏教だ、という信仰の表明を妨げるものではない。だが、その時には、異なる信仰体系を持つ人との摩擦を甘んじて受けねばならないと思うのだ。
それから、これは運営側に申し上げるが、もう少し事前の打ち合わせを密にしておくべきであった。せめて、他の宗教者への、根拠の無い批判はしないように申し入れておくべきであっただろう。このセミナーは、全3回あって、あと2回続くようだが、結構心配になってきた。テーマが良いだけに、講師の資質・言動をとても残念に思った。
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