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道元禅師の生死観(2013年6月20日版)

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何度も同じようなものを書いているので、日付入りにしてみた。

今、曹洞宗にて読誦する経典である『修証義』の冒頭には、次のように示されている。

生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。
    「第一章・総序」

これは、道元禅師『正法眼蔵』「諸悪莫作」巻からの引用である。意図するところは、我々がこの世に生まれ生きること、そして、死ぬることの「真実義」を明らかにすることが、仏教徒として人として、今ここに自分がいる最も重要な理由であるという。我々が道元禅師の「生死観」を探究する上で最重要なことは、禅師が、この世界の有り様を、どう捉え、どう考え、どう生き抜き、そしてどう死に抜いたかを明らかにすることである。

道元禅師は坐禅の人であった。その坐禅(只管打坐)の境涯について、次の教えがある。

未だ是、思量分別の能く解する所に非ず。
    『普勧坐禅儀』

つまり、事象の真実義とは、我々が普段用いているような、分別的思考法では捉えきれないと仰っている。それではどうするべきだというのか。

もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆえに、諸仏如来をしては、本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界・三途六道の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟無為の深般若を開演す。
    『弁道話』

分別的思考法は、その内実に、自らとの損得関係を含む。結果、物事の真実義を見誤ってしまう。だが、自らの計らいを立てない坐禅は、じ自じゆ受ゆう用ざん三まい昧に端坐することとなり、身と心へのとらわれが自然に解き放たれ、事象の真実義である本来の面目が眼の前に現れる。「自受用三昧」とは、如来の三昧であり、あらゆる分別が脱落した境涯である。如来が自ら得た悟りの境涯を自ら味わう三昧である。この「自ら」とは、「自―他」の「自」では無く、まさにこの世界(=法界)そのものを「自」とする境涯である。よって、あらゆる諸事象(他者も含め)は、皆この自受用三昧の中で悟り(=真実義)の境涯となる。

それでは、自受用三昧の中で、「生死」という事象は、どのような「真実義」でもって現れるというのか。

生は全機現なり、死は全機現なり。
    『正法眼蔵』「全機」巻

「機」というのは、仏法・悟りのあるがままのはたらきであり、そのあるがままとは、「無常」ということである。「無常」というと、我々はすぐに「儚さ」として捉えるが、仏教の「無常」とは、仏の説かれた真実義であり、無常であるからこそ、我々の生も死も活き活きとはたらくのである。その様子を「全機現」という。「全機現」は「全」とあるから、先の「自―他の脱落」と同じで、我々の分別知見を及ぼすことが出来ない。よって、生のみが「全機現」とは出来ない。生死各々が「全機現」なのである。

いたづらに生を愛する事なかれ、みだりに死を恐怖する事なかれ。すでに仏性の処在なり、動著し厭却するは外道なり。
    『正法眼蔵』「仏性」巻

その「全機現」とは「仏性の処在」とも言い換えることが出来る。仏法を正しく学んでいない者は、生のみを愛し、死を恐怖する。しかし、道元禅師は生死ともに「仏性の処在」であるとしている。生も死も仏性そのものである。よって、このいずれかを、嫌って捨てることは、仏道以外の考え方である。生死はともに全機現であり、仏性である。そう会得出来たとき、我々は生死から自由になる。

この生死は、即ち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも、仏のいのちを、うしなふなり、仏のありさまを、とどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このとき、はじめて仏のこころにいる。
    『正法眼蔵』「生死」巻

生死とは、「仏の御いのち」である。「御いのち」とは「全機現」「仏性」と同義である。自受用三昧中の境涯、いわば分別知見を脱落した無分別のはたらきである。我々の勝手な考えで、生死を捨てたり、生にとらわれ死を嫌おうとすれば、「仏の御いのち」を失う。「仏の御いのち」を失えば、我々はこの生き死にから自由になることは出来ない。どうあがこうと、必ずとらわれ、そして苦悩する。苦悩は迷いとなり、我々の判断をにぶらせ、充実した生死から遠ざかる原因となる。

では、どうすれば、「仏のありさまを、とどむる」ことが出来るのか。既に、ただひたすらなる坐禅、只管打坐による真実義の開展という方法は示した。それを分かりやすくいえば、次の通りとなる。

ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。
    「生死」巻

我が身も心も、とらわれから放ち、忘れて、全てを「仏の家」に投げ入れてしまうのである。坐禅が、そのまま身と心を我々の分別から解き放つことになる。その時、我が身も心も、生死であっても全て、「仏のかた(=方)」から行われていく。一切の事象が、仏の方、つまり無常そのものであると会得されれば、我々は生死から自由となり、仏となる。仏とは、一切全ての事象にとらわれが無く、全ての本質を明らかに知る覚者である。

然るに、全ての本質を明らかに知る時、我々は無常なる事象の奥に、仏の真の法身、仏の自受用三昧を直観する。無常なる生死の奥にある「仏の永遠なる生命」である。最近は、この辺の発想は「本覚思想」的だと批判されて、余り指摘されることは無いが、道元禅師にこの発想を適用せずに、十全にその教えをいただくことは不可能である。

その上で、仏――坐禅人は、生死に恐怖しない。それは、現世の生死にとらわれず、仏の永遠なる生命を味わうためである。仏の永遠なる生命を味わうことで、現世の生死にとらわれないことは、もっとも善く生に親しみ、もっとも善く死に親しむ存在が、仏であり、坐禅人なのだと証してくれる。そして、この境涯にて安身立命することこそが、「生を明らめ死を明らむる」ことなのである。

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