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Channel: つらつら日暮らし
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スーパームーンと都機の話

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昨日の夜は、スーパームーンということで、月が地球に最も接近する夜で、非常に大きく見えると話題でございました。残念ながら、拙僧は見ることが出来ませんでしたが(就寝のため)、多くの人が鑑賞されたことでしょう。ということで、昨日はせっかく「月」への関心が高まったわけですので、拙僧も「都機」について考えてみようと思います。

ところで、『正法眼蔵』「都機」巻とは、とても興味深い一巻であり、これは「月」について論じた巻です。しかも、同時に「都機=全機(都を全てと読む)」について論じた巻でもあります。道元禅師には「全機」巻という著作もありますが、それと重なるような内容なのです。ところが、万葉仮名まで使って付けた「都機」巻ですが、同巻中の本文には、「都機」は一度も出てこないのです。これもかなり不思議です。

拙僧が同巻に於いて、何時読んでも「なるほど」と思わせられるのが、以下の文脈です。

月のときはかならず夜にあらず、夜かならずしも暗にあらず。ひとへに人間の小量にかかはることなかれ。日月なきところにも昼夜あるべし、日月は昼夜のためにあらず、日月ともに如如なるがゆえに、一月両月にあらず、千月万月にあらず。月の自己、たとひ一月両月の見解を保任すといふとも、これは月の見解なり、かならずしも仏道の道取にあらず、仏道の知見にあらず。しかあれば、昨夜たとひ月ありといふとも、今夜の月は昨月にあらず、今夜の月は初・中・後ともに今夜の月なりと参究すべし。月は月に相嗣するがゆえに、月ありといへども、新旧にあらず。
    『正法眼蔵』「都機」巻

月が出ているのは「夜」だとばかり考えてはならないとしています。確かに「有明の月」などもありますから、そういうことかな?と思っていたら、「夜かならずしも暗にあらず」としています。つまり、月とは夜にばかりあるのでもないし、夜とは暗いというばかりではないとしているので、ここでは、諸事象の一義性を破する見解を挙げていることになります。だからこそ、「ひとへに人間の小量にかかはることなかれ」とされているわけです。諸事象を一義的に理解しようとすることが、「人間の小量にかかはる」ことになります。ですから、それを破するわけです。

道元禅師に於いて、「昼夜」というのは、「万法」のことを指しているのだろうと思われます。また、「日月」は「如如」とある通り、仏の道理や法身を意味しています。よって、如如たる日月は万法のためにあるのではなく、むしろその逆だといえましょう。仏の道理であるということは、あらゆる限定を破しますので、「一月両月にあらず、千月万月にあらず」となります。数限りないわけです。まさに、諸月現成であります。

その「月」ですが、1つなのか?2つなのか?と考えてみたところで、これは月から見た月の考えであり、「仏道」として発したものでは有りません。その知見でもありません。昨晩のスーパームーンは、今日の月とは違います。しかし、今日の月は、昨日の月でもありません。ただ、今夜の月は今夜の月として、徹頭徹尾、月なのであります。時間的前後があるのではなく、行為的存在として、月が月であるわけです。

この場合の行為的存在とは、端的に「浄法界の身、本と出没無し、大悲の願力、去来を示現す」なのであります。月は月に慈悲をもて相継ぎ、その存在性を伝法しますが、それは新旧の関係では無いのです。並んでいるわけでも無いのです。各々独立し、しかし伝法されているのです。それが、「月」であります。月は満ち欠けがありますので、各々別の月が現れているという考えもあったようですが、道元禅師の場合には、現成という構造から、各々の月について考えをめぐらしておられます。それが会得されねばならないのであります。

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