今日、7月5日は日本に初めて臨済宗黄竜派の系統を伝えられた明庵栄西禅師(1141〜1215)の忌日であります。曹洞宗では、永平寺を開かれた高祖道元禅師が、栄西禅師と相見したかしないかで、色々と論争もありますけれども、実際のところ、強く尊崇していた事実には変わりなく、また、道元禅師は栄西禅師の弟子であった仏樹房明全和尚に師事しており、菩薩戒も受けていることから、実質的に、臨済宗と曹洞宗、両方からその教えを受けていたわけです。
また、永平寺に入られた後は、栄西禅師のために報恩、追悼の上堂を二度行われるなど、その思いの強さは明白です。今日は、その道元禅師が伝えた栄西禅師の言行を通して、顕彰してみたいと思います。
道元禅師が夜話にいわれるには、故(栄西)僧正がいわれるには、「修行僧がそれぞれに用いている衣服や食事などは、この私が与えたものだ、等と思ってはならない。これは、諸天が(諸君に)供養したものである。私はそれを取り次いで、他の人に渡しただけである。また、各々一生の間、生活するために必要な物が具わっている。(無闇に求めて)奔走するようなことがあってはならない」と常に勧められていたのだが、これは第一に優れた言葉だと思っている。
また、大宋の宏智禅師の会下において、天童山には常住物は千人分であった。つまり、堂中の七百人分、堂外に三百人分の、千人分の常住物しかなかった。(宏智)長老が住職している間は、諸方の僧が集まってきて、堂中だけで千人になった。その外には、五〜六百人ほどになったので、(寺院経営に関わる)知事が宏智禅師に訴えを申し上げて言うには、「常住物は千人分しかないのですが、修行僧が多く集まり過ぎてしまい、用いようとしても不足しています。枉げて、(余分な)修行僧達を、追い出して下さい」と。そうすると、宏智禅師が仰るには、「人にはそれぞれ皆、口がある。だから、これはそなたが独りで抱える問題ではない。歎くことはない」と。
今、これを思うと、人には皆、生まれつき決まっている衣服や食料の得るべき量がある。思っていても(新たに)出てくることはなく、求めなくても来ないわけではない。在家人であってすら、運に任せて、忠孝を思い学ぶ。ましてや、出家人は余計なことに関わろうとしてはならない。釈尊が遺された福分もあるし、諸天から供養される衣服・食事もある。また、生まれつき持っている生活費用もある。求めたり及ばないにしても、働きに任せて、生活費用が決まっている。たとえ、走り回って求め、財を得たとしても、無常が来たときにはどうするのか?だからこそ、仏道を学ぶ者は、余計なことに心を留めず、ひたすら仏道を学ぶべきなのである。
『正法眼蔵随聞記』巻3-6前半、拙僧ヘタレ訳
このような教えを知る前には、現代、僧侶として生きていくのは大変なのでは無いかと思っていましたが、実際には道元禅師の時代から、大変だと思っていた人が大勢いて、しかも、社会保障なども全くといっていいほど無い時代だと思えば、今の我々よりも、切実に僧侶としての生活を気に掛けていた人がいたことは、理解出来ます。しかし、そういう状況にあっても、道元禅師は僧侶には、必要な衣服や食料が自ずと整うのだから、無闇に求めて奔走するようなことがあってはならない、としているのです。それをする暇があれば、ひたすらに仏道修行に励めば、それに応ずるかのように、衣服や食料で困ることは無いとされているのです。
なお、道元禅師がこういう或る種の楽天的発想に至った経緯に、栄西禅師が深く関わっていると思われるのです。なお、道元禅師が栄西禅師と実際に相見したかどうかには、議論があると申し上げましたが、こういう栄西禅師の教えを「常にすすめられければ」と伝える道元禅師は、やはり会っていたのではないかと思うわけです。無論、明全和尚などから、そう聞いた可能性を捨てるほど、強い文脈ではありません。「まのあたり聞いた」とかいう一文があるわけでは無いので、無論、会っていることを証明することは出来ませんが、それでも、強引に会っていないことを主張できるほど、強い文脈でもありません。普通に考えれば、「栄西禅師が常に勧めておられたんだよ」という言葉は、それを聞いた本人が述べるのが自然です。
実際、寺院経営という観点から見ると、建仁寺での栄西禅師のご苦労は、かなりのものだったようです。自身は、「権僧正」という位を得た人ではありましたが、いわゆる比叡山でのエリート僧という側面を捨てて、「聖」というあり方をしていた人でもありますから、結局寄進なども自分で獲得しに行かねばならないところがあったわけです。それを踏まえての、栄西禅師の発言だと思えば、この人は、ただの経営者でも無いし、ボスでも無いし、仏道修行者だったのだと理解出来ます。既に【第二十五為主失儀戒(『梵網菩薩戒経』参究:四十八軽戒25)】という連載記事で申し上げた通り、一定の地位を得た僧侶が後進を養い育てることは、『梵網経』でも定めているところですので、栄西禅師もそれに随っているのでしょう。
ただ、後進の方からすれば、栄西禅師の個人崇拝に陥る可能性もあり、「諸天からの供養を分配している」という発言に到ったものと拝察されます。そして、道元禅師はそれを承けて更に、「釈尊が遺された福分」の話に至りました。これは、仏教的世界観にも関わることなのですが、掻い摘んで申し上げれば、釈尊の在世時、人の寿命は「100年」であったという考え方がありました。しかし、ご承知の通り、仏陀は80年で入滅しています。しかも、『涅槃経』などに依れば、仏陀は「魔」の言葉に随って、自ら入滅を決意したという解釈もあり、そうなると、ここで本来生きられるはずであった「20年分」をどうするか?という話になります。
ここから、「仏陀の遺された福分」に至ります。要するに、仏陀はその如来の寿命20年を敢えて遺し、それを後進の仏教徒・仏道修行者に遺されたというわけです。壮大なる布施といえます。よって、この布施があるからこそ、仏道修行者は、飢えることが無い、そう信じられていたのです。拙僧も、それを知ってから、結構気が楽になりました。ただ、学んでいさえいれば、それで何とかなってしまう、何とも有り難い話であると。
それを気付かせてくれた、栄西禅師、改めて品位を増崇せんことを祈念いたします。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈曹洞宗9〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
また、永平寺に入られた後は、栄西禅師のために報恩、追悼の上堂を二度行われるなど、その思いの強さは明白です。今日は、その道元禅師が伝えた栄西禅師の言行を通して、顕彰してみたいと思います。
道元禅師が夜話にいわれるには、故(栄西)僧正がいわれるには、「修行僧がそれぞれに用いている衣服や食事などは、この私が与えたものだ、等と思ってはならない。これは、諸天が(諸君に)供養したものである。私はそれを取り次いで、他の人に渡しただけである。また、各々一生の間、生活するために必要な物が具わっている。(無闇に求めて)奔走するようなことがあってはならない」と常に勧められていたのだが、これは第一に優れた言葉だと思っている。
また、大宋の宏智禅師の会下において、天童山には常住物は千人分であった。つまり、堂中の七百人分、堂外に三百人分の、千人分の常住物しかなかった。(宏智)長老が住職している間は、諸方の僧が集まってきて、堂中だけで千人になった。その外には、五〜六百人ほどになったので、(寺院経営に関わる)知事が宏智禅師に訴えを申し上げて言うには、「常住物は千人分しかないのですが、修行僧が多く集まり過ぎてしまい、用いようとしても不足しています。枉げて、(余分な)修行僧達を、追い出して下さい」と。そうすると、宏智禅師が仰るには、「人にはそれぞれ皆、口がある。だから、これはそなたが独りで抱える問題ではない。歎くことはない」と。
今、これを思うと、人には皆、生まれつき決まっている衣服や食料の得るべき量がある。思っていても(新たに)出てくることはなく、求めなくても来ないわけではない。在家人であってすら、運に任せて、忠孝を思い学ぶ。ましてや、出家人は余計なことに関わろうとしてはならない。釈尊が遺された福分もあるし、諸天から供養される衣服・食事もある。また、生まれつき持っている生活費用もある。求めたり及ばないにしても、働きに任せて、生活費用が決まっている。たとえ、走り回って求め、財を得たとしても、無常が来たときにはどうするのか?だからこそ、仏道を学ぶ者は、余計なことに心を留めず、ひたすら仏道を学ぶべきなのである。
『正法眼蔵随聞記』巻3-6前半、拙僧ヘタレ訳
このような教えを知る前には、現代、僧侶として生きていくのは大変なのでは無いかと思っていましたが、実際には道元禅師の時代から、大変だと思っていた人が大勢いて、しかも、社会保障なども全くといっていいほど無い時代だと思えば、今の我々よりも、切実に僧侶としての生活を気に掛けていた人がいたことは、理解出来ます。しかし、そういう状況にあっても、道元禅師は僧侶には、必要な衣服や食料が自ずと整うのだから、無闇に求めて奔走するようなことがあってはならない、としているのです。それをする暇があれば、ひたすらに仏道修行に励めば、それに応ずるかのように、衣服や食料で困ることは無いとされているのです。
なお、道元禅師がこういう或る種の楽天的発想に至った経緯に、栄西禅師が深く関わっていると思われるのです。なお、道元禅師が栄西禅師と実際に相見したかどうかには、議論があると申し上げましたが、こういう栄西禅師の教えを「常にすすめられければ」と伝える道元禅師は、やはり会っていたのではないかと思うわけです。無論、明全和尚などから、そう聞いた可能性を捨てるほど、強い文脈ではありません。「まのあたり聞いた」とかいう一文があるわけでは無いので、無論、会っていることを証明することは出来ませんが、それでも、強引に会っていないことを主張できるほど、強い文脈でもありません。普通に考えれば、「栄西禅師が常に勧めておられたんだよ」という言葉は、それを聞いた本人が述べるのが自然です。
実際、寺院経営という観点から見ると、建仁寺での栄西禅師のご苦労は、かなりのものだったようです。自身は、「権僧正」という位を得た人ではありましたが、いわゆる比叡山でのエリート僧という側面を捨てて、「聖」というあり方をしていた人でもありますから、結局寄進なども自分で獲得しに行かねばならないところがあったわけです。それを踏まえての、栄西禅師の発言だと思えば、この人は、ただの経営者でも無いし、ボスでも無いし、仏道修行者だったのだと理解出来ます。既に【第二十五為主失儀戒(『梵網菩薩戒経』参究:四十八軽戒25)】という連載記事で申し上げた通り、一定の地位を得た僧侶が後進を養い育てることは、『梵網経』でも定めているところですので、栄西禅師もそれに随っているのでしょう。
ただ、後進の方からすれば、栄西禅師の個人崇拝に陥る可能性もあり、「諸天からの供養を分配している」という発言に到ったものと拝察されます。そして、道元禅師はそれを承けて更に、「釈尊が遺された福分」の話に至りました。これは、仏教的世界観にも関わることなのですが、掻い摘んで申し上げれば、釈尊の在世時、人の寿命は「100年」であったという考え方がありました。しかし、ご承知の通り、仏陀は80年で入滅しています。しかも、『涅槃経』などに依れば、仏陀は「魔」の言葉に随って、自ら入滅を決意したという解釈もあり、そうなると、ここで本来生きられるはずであった「20年分」をどうするか?という話になります。
ここから、「仏陀の遺された福分」に至ります。要するに、仏陀はその如来の寿命20年を敢えて遺し、それを後進の仏教徒・仏道修行者に遺されたというわけです。壮大なる布施といえます。よって、この布施があるからこそ、仏道修行者は、飢えることが無い、そう信じられていたのです。拙僧も、それを知ってから、結構気が楽になりました。ただ、学んでいさえいれば、それで何とかなってしまう、何とも有り難い話であると。
それを気付かせてくれた、栄西禅師、改めて品位を増崇せんことを祈念いたします。
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈曹洞宗9〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。