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今日は7月14日 懐弉禅師入院

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別に、病院に入ったわけでは無い。

建長五年七月十四日、二代弉和尚御入院あり、開山御在世之内也。
    『建撕記

このように、15世紀に入って編まれた、道元禅師の伝記と、永平寺の古伝を示す資料には、建長5年(1253)に、懐弉禅師が永平寺二代目として入られたことを示す。理由は、これも同著を参照すれば、道元禅師は前年の夏頃から病の兆候が出て、特に10月以降は悪かったとされる。

そこで、建長5年1月には『正法眼蔵』最後の1巻となる「八大人覚」巻が示されたが、実質的にそれ以上の説法をされた様子は無く、症状が進む中で、道元禅師御自身の退董と、懐弉禅師の入院という状況に至ったと思われる。それが、7月14日であった。

なお、道元禅師御自身は翌8月5日に、大檀越・波多野義重公の懇請によって、療養のために上洛したものの、治療の甲斐無く、同28日に京都にて御入滅された。世寿54歳であった。この上洛に懐弉禅師は同行されたが、御入滅を目の当たりにし、1時間ほど気を失っていたとも伝わる。大きなショックだったのだろう。

さて、上記引用文では、わざわざ「開山御在世之内」とある通り、懐弉禅師が入院された頃、道元禅師はまだご存命であり、どうも一部記録に依れば、懐弉禅師が行われる上堂などを、道元禅師は立ち並ぶ大衆とともに聞き、その証明をされたともいう。また、更に一部記録に依れば、懐弉禅師の方が長命であると見越して、永平寺内での様々な行事はまず、懐弉禅師に行わせるのを通例ともしていた。

これにより、道元禅師が中国から伝えられた生きた仏法、それはとどのつまり、様々な行持作法に他ならないけれども、それは正しく懐弉禅師に受け嗣がれた。空理空論、観念的な仏法が伝わったという表明がなされるより、余程重い事態である。よって、一部の創業者重視説を無条件に考えたがるような人には伝わらないだろうが、実際に道元禅師はご自分亡き後の永平寺について、様々な気配りを行い、方策を調えていた様子が伝わる。

懐弉禅師はそういう環境の中で、二代目として永平寺に入られた。されど、中々その次までも、当初の気配りが伝わることは無かったようで、いわゆる「三代相論」が起きたとはいう。しかし、昨今では、その実態については様々な疑義が呈されてもいる。我々も、その辺を良く承知した上で、従来の定説を考慮すること無く、古伝を正しく読み解いて、この時代の永平寺について知っておく必要があると思われる。それは同時に、何故、現在の曹洞宗に両大本山が存在しているのかを知ることにも繋がるのである。

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