NHKの朝の連続テレビ小説『あまちゃん』で、「なもみ」が出たというので、関連した記事を書いてみます。
なお、詳しいことは、【小正月の伝統行事「なもみ」】などをご覧下さい。
「なもみ」ですが、小正月の伝統行事になります。岩手の一地方の方言で、いろり(囲炉裏)にばかりあたっていると、すねの辺りが赤くなってしまいますが、このことを、「なもみ」とか「あま」などというようです。
そして、この「なもみ」が出来る状態になるまで、いろりに当たっているというのは、怠けているということで、この怠け者の怠け根性を打ち破るために、鬼の姿をした「なもみ」はやって来ます。つまり、「なもみ」を剥いでしまうぞ、と脅かして、怠け根性を止めさせるのです。
あの、秋田で有名な「なまはげ」も、「なもみ剥げ」から来たとされており、類似したお祀りであることは違いありません。
しかし、このような怠け根性を打ち破るということが、ちゃんと正月行事に入っているのがとても良いですね。何故ならば、人はその本性、怠惰な生き物だからです。楽な方に流れるのが通常だといえましょう。
それで、このような「鬼」まで登場させて、ちゃんと仕事をするように促す、それが、共同体や社会を維持していくのに大切だと思われていたわけです。しかも、各家々に入ってくるというのもポイントで、都会のプライバシーばかりが強調されている地域では想像が出来ないでしょうが、プライバシーの尊重は、同時に精神的な逃げ場所を作ることになります。
それが、怠け心に繋がる場合があるわけです。
よって、どこにいても、見逃されないぞ、ということで、家々に入ってくるわけです。とても良いことです。逃げずに、怠惰に陥らずに仕事する、それは、まさに社会人そのものであります。このような猛烈に仕事を進めていく様子があって、初めて日本社会の経済的発展に繋がるといえます。
ところで、曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師に、次のような言葉が伝わっています。
上古有道の古仏、猶お自ら手づから精勤して弥いよ勤む。後来晩進の庸流、豈に徒らに緩怠・慢怠なる者ならん哉。若し其れ如法に精勤せば、乃ち是れ今日の有道ならん歟。
『永平寺知事清規』「典座」項
道元禅師の著作を読んでいると、繰り返し「勤」という言葉が見えます。同時に、「怠」を打ち破っています。拙僧などはここに、道元禅師の教育者としての側面を見る思いがしますが、転じて考えれば、ここまで繰り返し言わないと、人は努力しないのです。
努力しなければ、楽な方に流れ、結局はその人は力を失ってしまいます。力を失えば、あらゆる生活なども成り立たなくなることは明確です。力とは、日常に於いて適度な緊張感があるからこそ、初めて生み出されるのです。この緊張感を、他からの働きかけで作る、それが「なもみ」だといえましょう。
ちょっと気になったので、関連した記事を書いてみました。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 国内ニュースを1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
なお、詳しいことは、【小正月の伝統行事「なもみ」】などをご覧下さい。
「なもみ」ですが、小正月の伝統行事になります。岩手の一地方の方言で、いろり(囲炉裏)にばかりあたっていると、すねの辺りが赤くなってしまいますが、このことを、「なもみ」とか「あま」などというようです。
そして、この「なもみ」が出来る状態になるまで、いろりに当たっているというのは、怠けているということで、この怠け者の怠け根性を打ち破るために、鬼の姿をした「なもみ」はやって来ます。つまり、「なもみ」を剥いでしまうぞ、と脅かして、怠け根性を止めさせるのです。
あの、秋田で有名な「なまはげ」も、「なもみ剥げ」から来たとされており、類似したお祀りであることは違いありません。
しかし、このような怠け根性を打ち破るということが、ちゃんと正月行事に入っているのがとても良いですね。何故ならば、人はその本性、怠惰な生き物だからです。楽な方に流れるのが通常だといえましょう。
それで、このような「鬼」まで登場させて、ちゃんと仕事をするように促す、それが、共同体や社会を維持していくのに大切だと思われていたわけです。しかも、各家々に入ってくるというのもポイントで、都会のプライバシーばかりが強調されている地域では想像が出来ないでしょうが、プライバシーの尊重は、同時に精神的な逃げ場所を作ることになります。
それが、怠け心に繋がる場合があるわけです。
よって、どこにいても、見逃されないぞ、ということで、家々に入ってくるわけです。とても良いことです。逃げずに、怠惰に陥らずに仕事する、それは、まさに社会人そのものであります。このような猛烈に仕事を進めていく様子があって、初めて日本社会の経済的発展に繋がるといえます。
ところで、曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師に、次のような言葉が伝わっています。
上古有道の古仏、猶お自ら手づから精勤して弥いよ勤む。後来晩進の庸流、豈に徒らに緩怠・慢怠なる者ならん哉。若し其れ如法に精勤せば、乃ち是れ今日の有道ならん歟。
『永平寺知事清規』「典座」項
道元禅師の著作を読んでいると、繰り返し「勤」という言葉が見えます。同時に、「怠」を打ち破っています。拙僧などはここに、道元禅師の教育者としての側面を見る思いがしますが、転じて考えれば、ここまで繰り返し言わないと、人は努力しないのです。
努力しなければ、楽な方に流れ、結局はその人は力を失ってしまいます。力を失えば、あらゆる生活なども成り立たなくなることは明確です。力とは、日常に於いて適度な緊張感があるからこそ、初めて生み出されるのです。この緊張感を、他からの働きかけで作る、それが「なもみ」だといえましょう。
ちょっと気になったので、関連した記事を書いてみました。
この記事を評価して下さった方は、
