時代的に、法然上人と親鸞聖人の時代に決定的な違いがあるとすれば、法然上人の時代には、日本では禅宗はまだそれほど盛んではなかったけれども、親鸞聖人(1173〜1262)の時代には、盛んであった。まぁ、中国に留学する禅僧も増え、中国から来日する禅僧も増えてきたからだ。
・明庵栄西禅師(1141〜1215)
1168年 5ヶ月の入宋
1186年 5ヶ年の入宋
・覚阿上人(1143〜没年不詳)
1171年 約2ヶ年の入宋か?
・明全和尚と道元禅師
1223年 5ヶ年の入宋
・天祐思順禅師(生没年不詳)
不明 13ヶ年の入宋(内、禅寺には7年。入宋は1236年よりも前になる)
・東福円爾禅師(1202〜1280)
1235年 7ヶ年の入宋
・性才法心禅師(生没年不詳)
不明 9年間の入宋
・道祐禅師(1201〜1256)
1235〜38年頃入宋 1245年に帰国
・蘭渓道隆禅師(1213〜1278)
1246年 来日
・無本覚心禅師(1207〜1298)
1249年 5ヶ年の入宋(無門慧開の法嗣)
・兀菴普寧禅師(生年不詳〜一二七六)
1260年 来日(1265年帰国)
このように、多くの禅僧の日中往来があった。よって、親鸞聖人の言葉には、以下のようにある。
選択本願は有念にあらず、無念にあらず。有念はすなはち色形をおもふにつきていふことなり。
無念といふは、形をこころにかけず、色をこころにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。
聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。
また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。
権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
『親鸞聖人御消息』「有念無念の事」
理由は良く分からないけれども、親鸞聖人は「聖道門」の具体例として、真言宗や法華宗(天台宗)と並んで、その筆頭に「仏心宗」を挙げる。そして、その解説として、仏心宗とは禅宗であるという。しかも、「この世にひろまる」とあれば、晩年京都に住まいしている親鸞聖人は、おそらくは東福円爾に関わる聖一派辺りの伸張を目の当たりにしてのことだとは思うけれども、禅宗が世に多いと指摘するのである。法然上人ご存命の時代であれば、禅僧として名が通っていたのは、栄西禅師くらいなもので、後は覚阿上人が知られていたかもしれないけど、全体としては、「世にひろまる」状況ではなかったと思われる。
だいたい、本当に世に広まっていたのは、禅宗よりも浄土教でなかったか?禅宗が、自ら禅僧でいるために、僧堂の建立を要したのに対して、浄土教はとりあえず自分の身1つあれば良いので、どこへでも広がっていける。東大寺の凝然大徳は、『八宗綱要』の追記で、浄土教と禅を入れたけれども、浄土教の祖師を掲げる『浄土法門源流章』は著したが、『禅宗法門源流章』は書かなかった。このことからも、系譜や教団的に組織化され、それを著すに魅力的であったのは、浄土教だったのであろう。無論、その後は禅宗も頑張ったとは思うが・・・
さて、親鸞聖人は「聖道門」の定義について、この御消息では「すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめ」るための教えであるという。一応「大乗至極の教」とはされている。しかしながら、この御消息全てを見ると、結局は、「選択本願」を重視しながら、聖道門の教えは、この時代の人には合わないという。この時代というのは、末法の時代である。末法の時代には、修行をしてもその効果が正しく得られることはない。よって、阿弥陀仏の四十八願、就中十八願がクローズアップされ、吾等凡夫の計らいを超えて、絶対的にお救い下さる阿弥陀仏が見出されていくのである。
一方で、禅宗では「仏心」を強調することで、時代の流れなどを無視していくのである。これら、聖道・浄土それぞれに共通しているのは、如何にして「仏に近付くか」ということである。まだ、目の前に応現の釈迦がいてくれれば、何の心配もない。しかし、釈尊滅後は、仏に近付くために様々な方策が行われた。行法的には、仏陀を見る三昧の開発、思想的には、我々自身に仏が具わるという如来蔵(仏性)の開発である。前者を突き詰めて「念仏」が生まれ、後者を突き詰めて「禅」が生まれた。とはいえ、本当にその源流を辿ると、大体近いところに行くとはされる。
我々は日本の教団の様子しか見ていないから、本来近似的存在だったということに気付かない。しかし、似ているモノは似ている。そして、仏陀滅後の修行者達の想いなども考えてみると、いたずらに「本来の仏教」とやらを振りかざして、その思想的差異ばかりを糾弾するような発想というのは、拙僧は肯うことは出来ない。今思えば、一時期の駒澤大学を席巻した「批判仏教」というのは、本当に「出来損ないの原理主義」であると思う。
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・明庵栄西禅師(1141〜1215)
1168年 5ヶ月の入宋
1186年 5ヶ年の入宋
・覚阿上人(1143〜没年不詳)
1171年 約2ヶ年の入宋か?
・明全和尚と道元禅師
1223年 5ヶ年の入宋
・天祐思順禅師(生没年不詳)
不明 13ヶ年の入宋(内、禅寺には7年。入宋は1236年よりも前になる)
・東福円爾禅師(1202〜1280)
1235年 7ヶ年の入宋
・性才法心禅師(生没年不詳)
不明 9年間の入宋
・道祐禅師(1201〜1256)
1235〜38年頃入宋 1245年に帰国
・蘭渓道隆禅師(1213〜1278)
1246年 来日
・無本覚心禅師(1207〜1298)
1249年 5ヶ年の入宋(無門慧開の法嗣)
・兀菴普寧禅師(生年不詳〜一二七六)
1260年 来日(1265年帰国)
このように、多くの禅僧の日中往来があった。よって、親鸞聖人の言葉には、以下のようにある。
選択本願は有念にあらず、無念にあらず。有念はすなはち色形をおもふにつきていふことなり。
無念といふは、形をこころにかけず、色をこころにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。
聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。
また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。
権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
『親鸞聖人御消息』「有念無念の事」
理由は良く分からないけれども、親鸞聖人は「聖道門」の具体例として、真言宗や法華宗(天台宗)と並んで、その筆頭に「仏心宗」を挙げる。そして、その解説として、仏心宗とは禅宗であるという。しかも、「この世にひろまる」とあれば、晩年京都に住まいしている親鸞聖人は、おそらくは東福円爾に関わる聖一派辺りの伸張を目の当たりにしてのことだとは思うけれども、禅宗が世に多いと指摘するのである。法然上人ご存命の時代であれば、禅僧として名が通っていたのは、栄西禅師くらいなもので、後は覚阿上人が知られていたかもしれないけど、全体としては、「世にひろまる」状況ではなかったと思われる。
だいたい、本当に世に広まっていたのは、禅宗よりも浄土教でなかったか?禅宗が、自ら禅僧でいるために、僧堂の建立を要したのに対して、浄土教はとりあえず自分の身1つあれば良いので、どこへでも広がっていける。東大寺の凝然大徳は、『八宗綱要』の追記で、浄土教と禅を入れたけれども、浄土教の祖師を掲げる『浄土法門源流章』は著したが、『禅宗法門源流章』は書かなかった。このことからも、系譜や教団的に組織化され、それを著すに魅力的であったのは、浄土教だったのであろう。無論、その後は禅宗も頑張ったとは思うが・・・
さて、親鸞聖人は「聖道門」の定義について、この御消息では「すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめ」るための教えであるという。一応「大乗至極の教」とはされている。しかしながら、この御消息全てを見ると、結局は、「選択本願」を重視しながら、聖道門の教えは、この時代の人には合わないという。この時代というのは、末法の時代である。末法の時代には、修行をしてもその効果が正しく得られることはない。よって、阿弥陀仏の四十八願、就中十八願がクローズアップされ、吾等凡夫の計らいを超えて、絶対的にお救い下さる阿弥陀仏が見出されていくのである。
一方で、禅宗では「仏心」を強調することで、時代の流れなどを無視していくのである。これら、聖道・浄土それぞれに共通しているのは、如何にして「仏に近付くか」ということである。まだ、目の前に応現の釈迦がいてくれれば、何の心配もない。しかし、釈尊滅後は、仏に近付くために様々な方策が行われた。行法的には、仏陀を見る三昧の開発、思想的には、我々自身に仏が具わるという如来蔵(仏性)の開発である。前者を突き詰めて「念仏」が生まれ、後者を突き詰めて「禅」が生まれた。とはいえ、本当にその源流を辿ると、大体近いところに行くとはされる。
我々は日本の教団の様子しか見ていないから、本来近似的存在だったということに気付かない。しかし、似ているモノは似ている。そして、仏陀滅後の修行者達の想いなども考えてみると、いたずらに「本来の仏教」とやらを振りかざして、その思想的差異ばかりを糾弾するような発想というのは、拙僧は肯うことは出来ない。今思えば、一時期の駒澤大学を席巻した「批判仏教」というのは、本当に「出来損ないの原理主義」であると思う。
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