中々巧い形で進められない新連載なのですが、今月から本格的な連載をしていきたいと思います。元々この記事は、江戸時代に「大乗非仏説」を唱えたとされる富永仲基の『出定後語』を読んでいきながら、実際に書いてあることの内容を確認していきたいと思っております。そこで、連載の方法としては、上巻の目録を見ますと、全部で13章になっていますので、1回の記事で1章を紹介することを基本に見ていきたいと思っております。
今回は、上巻の第一として「教起の前後」を見ていきたいと思います。これは、「仏教が興起した由来・歴史」を扱うものです。この場合の「仏教」というのは、宗教組織としてのそれを意味するのではなくて、文字通り「仏の教え」を意味します。教説がどのように起きたかを考えています。よって、本連載で確認したい「大乗非仏説」の実際については、いきなり核心に切り込むようなところがあります。
いま、まづ教起の前後を考ふるに、けだし外道に始まる。その言を立つる者、およそ九十六種、みな天を宗とす。曰く、「これを因に修すれば、乃ち上、天に住す」と。これのみ。
岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』14頁
要するに、富永は当時のインドにあった様々な教え(本書では、「外道」と表現されていますが、これは、仏教以外の教え、ということです)は、「天」を拠り所とし、上天することを理想としていたといいます。例えば、釈尊が若い頃に教えを習ったとされる、阿羅羅(アーラーラ)や鬱陀羅(ウッダカ)なども、「無所有」を経て、「非非想」に至って極になるとしています。そこで、釈尊の教説は、次の通りだったとされています。
釈迦文これに上せんと欲するも、また生天をもつてこれに勝ちがたし。ここにおいて、上、七仏を宗として、生死の相を離れ、これに加ふるに大神変不可思議力をもつて、示すにその絶えてなしがたきをもつてす。乃ち外道服して竺民帰す。これ釈迦文の道のなれるなり。
前掲同著、14〜15頁
これが、富永が見通した釈尊の教説の「本質」になります。つまり、インドでは「上天」が支配的だったので、釈尊はそれを超えるために、「七仏」を更に挙げ、そして自身の教説も「生死の相を離れ」ることにしたというのです。更に、神通力も加えたとされ、これらによって、インドにいた仏教以外の教えを信じていた人も、皆信じたというのです。これが、基本です。
釈迦文すでに没して、僧祇の結集あり。迦葉始めて三蔵を集め、大衆また三蔵を集め、分かれて両部となつて、のちまた分かれて十八部となれり。〈中略〉これいはゆる小乗なり。ここにおいて、文殊の徒、般若を作りてもつてこれに上す。〈中略〉これいはゆる大乗なり。
前掲同著、15頁
釈尊が入滅した後で、仏弟子による「仏典の結集」が起きたことを示しています。迦葉が最初に「経・律・論の三蔵」を集め、その後「大衆部」が別に「三蔵」を決めたようで、これで2つになったとしています。迦葉と(文章には見えませんが)五百大阿羅漢は、上座部だと考えられているようです。そして、根本分裂を経て、十八部になっていく状況を簡単に書いており、ここを富永は「小乗」だとしています。
その後、文殊菩薩が中心となって、「般若」を作ったので、これを大乗だとしています。確かに、富永はここで、『大智度論』と『金剛仙論』を引用し、文殊が大乗法蔵を結集したことを示す文脈を見出しています。なお、前掲同著の註記を見ますと、実際には『法苑珠林』巻12からの引用だと判断されているので、流石に富永も、あらゆる一切の経典を見たわけではないということでしょうか。
そして、ここから、「年数前後の説」が出て来たとされます。つまり、大小乗の教説が、仏陀釈尊によって、どのように説かれたかを各々主張したということです。然るに、『大智度論』巻1には、大乗の見解として「仏陀が得道された夜から、般涅槃される夜まで、常に般若を説いた」(拙訳)とされます。一方で小乗の見解としては、同じ『大智度論』に「転法輪経から大涅槃経に至るまで、集めて四阿含(増一阿含・中阿含・長阿含・相応阿含)を作った」という文脈が見えますが、富永はこれらはまだ、「年数前後の説」では無いとしています。
しかし、『法華経』では、それまでに説かれた様々な経典を「無数の方便」などと、一段低い内容としてしまい、「我が所説の諸経、法華最第一」などとしたとされます。「法華三部経」の開経に位置付けられる『無量義経』でも、法華以前の経典を「真実を顕さず」などのように評したとされます。そこで、富永はこう結論します。
これ法華氏(これは富永の言い方で、いわゆる法華宗のこと)は乃ち大乗中の別部、従前の二乗を并せてこれを斥する者なり。しかつに後世の学者は、みなこれを知らず。いたづらに法華を宗として、もつて世尊真実の説教中の最第一となせる者は誤る。年数前後の説は、実に法華に?まる。并呑権実の説もまた、実に法華に?まる。〈中略〉ああたれはこれを蔽する者ぞ。出定如来にあらざればあたはざるなり。
前掲同著、16頁
そこで、富永は実際の釈尊の説は年数前後などの説は無いのに、それを法華氏が作り出し、更に、法華氏の教えは従来の権実の教えを併呑するものであって、こういう教えもまた作り出されたものだとしているわけです。富永は、この実際の様子を、学者は理解していないと批判し、「出定如来」でなければ、改めることが出来ないというのです。なお、この「出定如来」とは、富永の自称です。「経典成立に関する新見解が出定後の仏説に相通じるゆえ」(前掲同著、17頁註記参照)に、自称したとされます。
なお、富永はさらに、華厳氏の説が起きて、これも同じように、従前の大小乗を斥し、「一家の経王」を作ったとされます。また、大集・涅槃・兼部などの説が出て、経典と同じように、「五部の律」も出たとされます。『律』については、元々「八十誦」という仏陀の直弟子であった優婆離が誦出した根本律蔵に、「後世五氏、分かれて五部となる」としながら、「仏の滅度を去ることいくばくぞ」と、後代の成立を指摘しているのです。そして『律』について明かした富永は、更に諸大乗経典についても、同じだと批判します。
また、『楞伽経』などの「頓部氏」の教えが起き、これによって従来の複雑な教えを批判したとされ、この『楞伽経』を中国にもたらしたのが「菩提達磨氏」であったとしています。富永の分類では、禅宗は諸説の経典が出た後で、それらを総合的に批判する立場で確立されたとしています。
そして、更に「秘密曼陀羅金剛手氏」の教えが起きたとされます。いわゆる密教です。教えの特徴を、「この教へは諸家を摂するに一切智智をもつてし、乃ちこれをそのいはゆる曼陀羅に合するを」(前掲同著、19頁)としています。つまり、密教もまた、諸教を包摂する概念を提出したとしているのです。
本章の結論です。
これ諸教興起の分かるるはみな、もとそのあひ加上するに出づ。そのあひ加上するにあらずんば、則ち道法何ぞ張らん。乃ち古今道法の自然なり。しかるに後世の学者、みないたづらに謂へらく、諸教はみな金口親しく説く所、多聞親しく伝ふる所と。たえて知らず、その中にかへつて許多の開合あることを。また惜しからずや。
前掲同著、19〜20頁
先に、簡単に見たように、元々の結集から、徐々に諸氏が自らの立場を立てて、徐々に構築されていった様子を見ることが出来ます。また、その時に富永は、それらの経論の中に見える文章から、批判する対象を見定めることで、それらの批判(=加上)の順番の前後を決めています。それにより、先に見たような、教えの出た順番を決めたのです。なお、この教えの出た順番については更に、内容の分析を通して富永は批判を強めますが、それは「経説の異同 第二」で詳しく論じられていますので、来月見ていきたいと思います。
また、富永は釈尊であっても、従来のインドの教説に「加上」して、自らの教えを構築したと指摘することに注意した方が良いと思われます。そして、その後も、同じように、仏教を信じた後代の者が「加上」したのに、その事実を見ることなく、諸氏の教えもまた「金口親しく説く所、多聞親しく伝ふる所」と理解しているところに批判を寄せています。問題は「大乗非仏説」というよりも、「加上説」が通じることを重視し、それこそが「真理」だとしたいところにあるようなのです。それもまた、今後に『出定後語』を読み解く基準になることでしょう。
【参考資料】
・石田瑞麿訳『出定後語』、中公バックス日本の名著18『富永仲基・石田梅岩』1984年
・水田紀久編『出定後語』、岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』1973年
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今回は、上巻の第一として「教起の前後」を見ていきたいと思います。これは、「仏教が興起した由来・歴史」を扱うものです。この場合の「仏教」というのは、宗教組織としてのそれを意味するのではなくて、文字通り「仏の教え」を意味します。教説がどのように起きたかを考えています。よって、本連載で確認したい「大乗非仏説」の実際については、いきなり核心に切り込むようなところがあります。
いま、まづ教起の前後を考ふるに、けだし外道に始まる。その言を立つる者、およそ九十六種、みな天を宗とす。曰く、「これを因に修すれば、乃ち上、天に住す」と。これのみ。
岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』14頁
要するに、富永は当時のインドにあった様々な教え(本書では、「外道」と表現されていますが、これは、仏教以外の教え、ということです)は、「天」を拠り所とし、上天することを理想としていたといいます。例えば、釈尊が若い頃に教えを習ったとされる、阿羅羅(アーラーラ)や鬱陀羅(ウッダカ)なども、「無所有」を経て、「非非想」に至って極になるとしています。そこで、釈尊の教説は、次の通りだったとされています。
釈迦文これに上せんと欲するも、また生天をもつてこれに勝ちがたし。ここにおいて、上、七仏を宗として、生死の相を離れ、これに加ふるに大神変不可思議力をもつて、示すにその絶えてなしがたきをもつてす。乃ち外道服して竺民帰す。これ釈迦文の道のなれるなり。
前掲同著、14〜15頁
これが、富永が見通した釈尊の教説の「本質」になります。つまり、インドでは「上天」が支配的だったので、釈尊はそれを超えるために、「七仏」を更に挙げ、そして自身の教説も「生死の相を離れ」ることにしたというのです。更に、神通力も加えたとされ、これらによって、インドにいた仏教以外の教えを信じていた人も、皆信じたというのです。これが、基本です。
釈迦文すでに没して、僧祇の結集あり。迦葉始めて三蔵を集め、大衆また三蔵を集め、分かれて両部となつて、のちまた分かれて十八部となれり。〈中略〉これいはゆる小乗なり。ここにおいて、文殊の徒、般若を作りてもつてこれに上す。〈中略〉これいはゆる大乗なり。
前掲同著、15頁
釈尊が入滅した後で、仏弟子による「仏典の結集」が起きたことを示しています。迦葉が最初に「経・律・論の三蔵」を集め、その後「大衆部」が別に「三蔵」を決めたようで、これで2つになったとしています。迦葉と(文章には見えませんが)五百大阿羅漢は、上座部だと考えられているようです。そして、根本分裂を経て、十八部になっていく状況を簡単に書いており、ここを富永は「小乗」だとしています。
その後、文殊菩薩が中心となって、「般若」を作ったので、これを大乗だとしています。確かに、富永はここで、『大智度論』と『金剛仙論』を引用し、文殊が大乗法蔵を結集したことを示す文脈を見出しています。なお、前掲同著の註記を見ますと、実際には『法苑珠林』巻12からの引用だと判断されているので、流石に富永も、あらゆる一切の経典を見たわけではないということでしょうか。
そして、ここから、「年数前後の説」が出て来たとされます。つまり、大小乗の教説が、仏陀釈尊によって、どのように説かれたかを各々主張したということです。然るに、『大智度論』巻1には、大乗の見解として「仏陀が得道された夜から、般涅槃される夜まで、常に般若を説いた」(拙訳)とされます。一方で小乗の見解としては、同じ『大智度論』に「転法輪経から大涅槃経に至るまで、集めて四阿含(増一阿含・中阿含・長阿含・相応阿含)を作った」という文脈が見えますが、富永はこれらはまだ、「年数前後の説」では無いとしています。
しかし、『法華経』では、それまでに説かれた様々な経典を「無数の方便」などと、一段低い内容としてしまい、「我が所説の諸経、法華最第一」などとしたとされます。「法華三部経」の開経に位置付けられる『無量義経』でも、法華以前の経典を「真実を顕さず」などのように評したとされます。そこで、富永はこう結論します。
これ法華氏(これは富永の言い方で、いわゆる法華宗のこと)は乃ち大乗中の別部、従前の二乗を并せてこれを斥する者なり。しかつに後世の学者は、みなこれを知らず。いたづらに法華を宗として、もつて世尊真実の説教中の最第一となせる者は誤る。年数前後の説は、実に法華に?まる。并呑権実の説もまた、実に法華に?まる。〈中略〉ああたれはこれを蔽する者ぞ。出定如来にあらざればあたはざるなり。
前掲同著、16頁
そこで、富永は実際の釈尊の説は年数前後などの説は無いのに、それを法華氏が作り出し、更に、法華氏の教えは従来の権実の教えを併呑するものであって、こういう教えもまた作り出されたものだとしているわけです。富永は、この実際の様子を、学者は理解していないと批判し、「出定如来」でなければ、改めることが出来ないというのです。なお、この「出定如来」とは、富永の自称です。「経典成立に関する新見解が出定後の仏説に相通じるゆえ」(前掲同著、17頁註記参照)に、自称したとされます。
なお、富永はさらに、華厳氏の説が起きて、これも同じように、従前の大小乗を斥し、「一家の経王」を作ったとされます。また、大集・涅槃・兼部などの説が出て、経典と同じように、「五部の律」も出たとされます。『律』については、元々「八十誦」という仏陀の直弟子であった優婆離が誦出した根本律蔵に、「後世五氏、分かれて五部となる」としながら、「仏の滅度を去ることいくばくぞ」と、後代の成立を指摘しているのです。そして『律』について明かした富永は、更に諸大乗経典についても、同じだと批判します。
また、『楞伽経』などの「頓部氏」の教えが起き、これによって従来の複雑な教えを批判したとされ、この『楞伽経』を中国にもたらしたのが「菩提達磨氏」であったとしています。富永の分類では、禅宗は諸説の経典が出た後で、それらを総合的に批判する立場で確立されたとしています。
そして、更に「秘密曼陀羅金剛手氏」の教えが起きたとされます。いわゆる密教です。教えの特徴を、「この教へは諸家を摂するに一切智智をもつてし、乃ちこれをそのいはゆる曼陀羅に合するを」(前掲同著、19頁)としています。つまり、密教もまた、諸教を包摂する概念を提出したとしているのです。
本章の結論です。
これ諸教興起の分かるるはみな、もとそのあひ加上するに出づ。そのあひ加上するにあらずんば、則ち道法何ぞ張らん。乃ち古今道法の自然なり。しかるに後世の学者、みないたづらに謂へらく、諸教はみな金口親しく説く所、多聞親しく伝ふる所と。たえて知らず、その中にかへつて許多の開合あることを。また惜しからずや。
前掲同著、19〜20頁
先に、簡単に見たように、元々の結集から、徐々に諸氏が自らの立場を立てて、徐々に構築されていった様子を見ることが出来ます。また、その時に富永は、それらの経論の中に見える文章から、批判する対象を見定めることで、それらの批判(=加上)の順番の前後を決めています。それにより、先に見たような、教えの出た順番を決めたのです。なお、この教えの出た順番については更に、内容の分析を通して富永は批判を強めますが、それは「経説の異同 第二」で詳しく論じられていますので、来月見ていきたいと思います。
また、富永は釈尊であっても、従来のインドの教説に「加上」して、自らの教えを構築したと指摘することに注意した方が良いと思われます。そして、その後も、同じように、仏教を信じた後代の者が「加上」したのに、その事実を見ることなく、諸氏の教えもまた「金口親しく説く所、多聞親しく伝ふる所」と理解しているところに批判を寄せています。問題は「大乗非仏説」というよりも、「加上説」が通じることを重視し、それこそが「真理」だとしたいところにあるようなのです。それもまた、今後に『出定後語』を読み解く基準になることでしょう。
【参考資料】
・石田瑞麿訳『出定後語』、中公バックス日本の名著18『富永仲基・石田梅岩』1984年
・水田紀久編『出定後語』、岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』1973年
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